まろまゆ
緊急事態宣言も明け劇場の扉も開き、お芝居や音楽に直に触れられるようになってきた。 劇場に足を運び、スモークの甘い油の匂いをも持ち帰らんと胸いっぱいに吸い込む。ずっと待ち焦がれていた。簡単に吐き出してなるものか。 しかしお芝居もライブもいくつも観て、充実したかといえばそうでもなかった。緊急事態宣言が明けてお芝居も見に行けているのに、どんどん寂しくなるのは何故だろう。 禁止された歓声、コメディのはずなのに笑うことを戸惑ってしまう刹那、声に乗らぬまま飲み込まれる感想、劇場で届
低気圧とラップバトルしたい
「あっ、うんこ踏んだ」 人生で踏む機会はそうそうないのに、踏んだ瞬間わかるあの感覚。数多のものを踏みしめながらあるき続けて35年、5年ぶり3回目の感触。とりあえず出先で騒ぐわけにもいかないので、Twitterに「うんこ踏んだ…」とやるせなさを放流した。 初めてうんこを踏んだのは4歳のとき。 幼稚園へは公園を突っ切っていかねばならず、雨に降られながら公園の真ん中あたりに差し掛かった頃。 「あっ、うんこ踏んだ」 不思議なもので、人生ではじめてうんこを踏んだというのに、「わたしは
芸術は爆発だ その爆心地となれるか否かってどこで決まってしまうんだろう 自分が爆発したと思っても、それを爆発と他者が評価してくれないなら、その噴煙は何という名がつくのか
歳をとるのは少しこわい。 死が近づくからじゃなくて、むしろ死がどんどん遠のいてしまう気がするから。
noteの投稿がないということは、私の心が健全な状態であるということです
受け取った愛は循環させなければ!
神に何を祈ろうか。 明日いい事がありますように。 ごはんを美味しくたべられますように。 美しい木漏れ日を浴びられますように。 あたたかい布団で眠れますように。 あなたが、幸せでありますように。 サラサ 美しくあることを求められ、応えようと努力し、美しくあり続けた。しかし世間も母親も彼女の美しさに答えてくれなかった。恋人も「きれいだよ」と声をかけることもなかった。 だから彼女は自らの手で美しく人生の決着をつけようとした。運命のDIY。生き続けなければならない、と
生きづらさを感じてることは良い状態ではないけど、生きづらさを感じてることをみんなが認識し始めたのは次への一歩だと思ってる。思いたい。
人間社会にほとほと嫌気がさしていて、毎日のごはんを美味しく食べることにしばらく集中していました
舞台には素敵なことば、素敵なせりふがいっぱいあるな 宝箱にいれてだいじにしたい 日常生活もこんなせりふにいっぱい巡り合えたらいいのにな まずは私からかな
5月に向けいっぱい勉強しておかなければ
白く四方を囲まれたマイ・ハウス。 そこで繰り広げられる、生活という名のリフレイン。 リフレイン生きていかねばならない。食べなければいけない。 そのために働かねばいけない。 生かし続けなければいけない命が目の前にある。 この子の生殺与奪の権は私にある。しかし選ぶ余地はない。 生かし続けなければならない。食べさせなければいけない。 そのために働かなければいけない。 私とこの子の生活を遂行しなければいけない。 世話をしてやらなければいけない。手をかけてやらねばなら
生活することに余裕がないと、文化的な脳みそが閉じてしまう 受け取りも吐き出しもできなくなってしまう 嫌だな
週末から感動したり心が震えたり、モヤモヤしたり、悔しかったり、憤ったり。 でもぺしゃんこなところに声をかけてもらって嬉しかったり、安心したり、感謝したり。 「気持ちに塗る薬は気持ちしかない。」 優しく薬を塗ってもらいました。本当にありがとうございます。
かながわ短編演劇アワード2022、2日目の演劇コンペ&公開審査会を観てきました。 グランプリのMWnoズ、観客賞のエリア51、おめでとうございます!!! また、かまどキッチン・じゃぷナー観という初めましてのカンパニーの作品を観れたこと、エンニュイさんを知れたことを嬉しく思います。コロナ禍での開催に尽力してくださった皆様に感謝します。 …以下は現場で公開審査会をみて、いち観客として感じたことです。 結果についてではなく、結果に至るまでのプロセスについての話であるというこ