寂しさと羨望

緊急事態宣言も明け劇場の扉も開き、お芝居や音楽に直に触れられるようになってきた。

劇場に足を運び、スモークの甘い油の匂いをも持ち帰らんと胸いっぱいに吸い込む。ずっと待ち焦がれていた。簡単に吐き出してなるものか。


しかしお芝居もライブもいくつも観て、充実したかといえばそうでもなかった。緊急事態宣言が明けてお芝居も見に行けているのに、どんどん寂しくなるのは何故だろう。


禁止された歓声、コメディのはずなのに笑うことを戸惑ってしまう刹那、声に乗らぬまま飲み込まれる感想、劇場で届けるすべを失ったファンレター。

いまの私は、インプット/アウトプットのバランスが完全に崩れている。伝えたいのに伝えるすべを封じられてしまった。インターネットの大海に感想をぽたり、と落とすだけでは足りない。板の上から受け取るばかりで私は何も投げ返せていない。見てたよ、良かったよ、拍手だけじゃ足りないものを伝えたいのに!


演劇とはなにか?

自分のため、他者(社会)のため、自己実現のため、成長のため…板の上のひとたちの様々なスタンスが巡り巡って観客の血肉となる。その熱い血潮が行き場を失って私はいま鼻血を出している。

板の上、そして舞台裏での探り合いはとても魅力的で、とても羨ましい。羨ましい!

いま、私は猛烈に“演劇をやってみたく”なっている。才などない、でも“やってみたい”衝動が喉元までせり上がってきている。


…否、きっと私は“対話をしたい”のだ。

ニューノーマルな働き方でほぼリモート勤務となり、社会と繋がっていたいがために働いていたはずなのに、繋がるための手段たり得なくなってしまっている。工場の油の匂いが好きだった。造り手たちの煤けた手が好きだった。明日もまた来るねと声をかけて、溶接の光をたよりに歩く夕暮れが好きだった。でももうそこに立ち入ることもできない。だって必要ないから。リモートでも仕事はできる。作業はできる。でも対話ができない。対話がなくても仕事は進む。なんて上手くできたシステムであろうか。ニューノーマルが広がって、私の世界は閉じていく。


だれか私の話を聞いて。

私の見たもの聞いたもの刺さったものを受け取って。

私にそれらを表現する才が、術が、場があったらこの焦燥は消えるのだろうか。

この冬、少なくともあと二本はお芝居を観に行く。

私はその時も鼻血をぬぐいながら、ぎらぎらと冴えた眼で、ひとり帰途につくのだろうか。

血が血管を突き破るまえに、私は私のために何かを始めなければいけない気がする。

でも、何を始めればいいのだろう。わからない。

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