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『見知らぬ誘拐』

電話は、その夜突然かかってきた。
シャワーを浴びて、ほっとひと息ついたところだった。
缶ビールを開けた時、バイブにしてある携帯が震え始めたのだ。

「お前の奥さんを誘拐した。金を用意しろ。金額はまた連絡する。警察には絶対に言うな。言ったら、綺麗な奥さんの命はないぞ。見ているからな」

一方的に電話は切れた。
宙を見上げると、とりあえずというようにビールをひと口飲んだ。
さて、と彼は考えた。
イタズラ電話に決まっている。
着信は非通知だ。
でも、本当にそう言い切れるのか。
もし、これが本当ならどうする。
警察に通報するべきか。
いや、それはだめだろう。
人の命がかかっているのだから。

そもそも、「奥さん」って誰のことだ。
彼は独身だった。
もういい歳になるが、未だかつて結婚したことはない。
そんな話が出たこともない。
じゃあ、誰の奥さんだ。
やはり、イタズラ電話か。

もし、犯人のかけ間違いだとしたらどうする。
犯人は、「奥さん」から聞いた電話番号の一桁を聞き間違えるか、書き間違えてしまった。
犯人さん、間違ってますよと教えるのも、何だか変だ。
教えたとしても、そうやすやすと信じるだろうか。
2回目からは、発信履歴からかけてくるに違いない。
これが「奥さん」の旦那の電話だと思い込んで。
そんな時に、違いますよと言っても、もう遅いのではないか。
逆上されても大変だ。
そもそも非通知なんだから、こちらからかけるわけにはいかない。

彼は、2本目のビールを開けた。

それに、もし間違い電話だと、犯人が気がついたとしたら…
犯行を知ってしまった自分の身だって危ないのではないか。
じゃあ、どうする。
このまま、「奥さん」の夫のふりを続けるか。
金を用意しろと言っていたな。
身代金なんて、そんなに安い金ではないだろう。
自分に用意できるのか。
普通預金をおろして、定期を解約しても、多分、足らないだろう。
これで全部ですと、頭を下げるのか。
いやいや、そんな姿がマスコミに知られたら。
でも、マスコミに知られている時点で、「奥さん」の命は危ないのではないか。

彼は、3本目のビールを開けて、ついでに4本目もテーブルに並べておいた。

ビールを飲みながら、心の中で何かが引っかかっているのに気がついた。
そうだ、「奥さん」の本当の旦那はどうしているんだ。
まだ、自分の妻が誘拐されたことすら知らないのかもしれない。
妻が行方不明だと警察に届けているだろうか。
そうだとすると、それが犯人に知られるとまずいことになる。
犯人は、俺が警察に言ったと勘違いするに決まっている。
「奥さん」の命が危ない。
ても、打つ手はないわけだ。
こうして、次の電話を待つ以外は。

待てよ。
彼は、ついに4本目のビールを開けた。
犯人は「綺麗な奥さん」と言ったな。
犯人がそう言うってことは、本当に綺麗なんだろう。
だとするとだ。
「綺麗な奥さん」の旦那は、男前に決まっている。
男前の旦那ってのは、たいてい浮気するもんだ。
奥さんが綺麗でも、関係ない。
それが男前の旦那の定めだ。
だから、この「綺麗な奥さん」の旦那も、今頃どこかで浮気しているに違いない。
自分の妻が大変なことになっているとも知らずに、どこかの若い女といちゃついているのだろう。
それとも、仕事で知り合った美人社長と、高級ホテルのスイートルームでよろしくやっているのかもしれない。
だめだ、そんな奴に「綺麗な奥さん」を渡すわけにはいかない。

冷蔵庫にもうビールはなかった。
彼は、いつか上司にもらったウイスキーのボトルを開けた。

もう、俺がやるしかないのではないかと、彼は考えた。
「綺麗な奥さん」を助けられるのは、自分だけだ。
金は、何とかしよう。
上司に前借りをお願いしてもいい。
少しくらいなら、貸してくれるかもしれない。
ヤフオクで売れるものだってあるだろう。
身代金を払い、「綺麗な奥さん」が解放された時が、運命の出会いだ。
それは、どこかの堤防の上。
2人は駆け寄って、きつく抱き合う。
あなただったのね。
そうだ、僕だよ。やっと会えたね。
それならば、この犯人は俺たちの恋のキューピッドじゃないか。

こうなると、犯人とはうまくやらないとな。
共同戦線でも張るか。
ということは、俺も共犯なのか。
それなら、なおさら慎重にならなくては…

確か、こんなのあったぞ。
犯人と人質が仲良くなるやつ。
そうだ、ストックホルム症候群だ。
いや、それは困る。
そうなる前に助けないと…
「綺麗な奥さん」が目に浮かぶようだ…

携帯が震え始めた。
ボトルを握りしめたままソファに倒れ込んだ彼が動く気配は…なかった。
携帯の振動にこだまするように、彼のいびきが響き渡った。




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