『あのときの返事』
中学校を卒業すると、彼女は進学しなかった。
進学しないことは聞いていたから驚きはしなかったけれども。
どうしてと尋ねても、教えてはくれなかった。
「どうでもいいじゃん」
高校に進学した僕は、彼女と話をすることもなくなった。
駅で見かけた時には、髪の毛を長くして染めていた。
その時にも、話しかけようとは思わなかった。
それに彼女は一人ではなかったから。
その時のグループの中には、同じ中学校の男子もいた。
笑ってはいたが、みんな楽しそうには見えない。
彼女はこちらを見たが、その視線は届かなかった。
僕が都会の大学に行く頃に、もう一度見かけた。
赤ん坊を抱いている。
そう思うと同時に目を逸らせた。
僕は大学を卒業すると、そのまま都会で就職した。
特にやりたいこともなかった。
最初に内定をもらえたことと、比較的条件が良かったので決めた会社。
泊まり込みの研修は、何とか耐えられた。
配属の翌日から帰りは毎日深夜に。
寝るためだけに帰る部屋。
休日もほとんど、寝て過ごすようになっていく。
人を蹴落とす人にも初めて出会う。
そして、自分初めても蹴落とされる。
もちろん、受験であれ、就職であれ、誰かを蹴落としていることに違いはない。
しかし、それは、あくまでも、椅子取りゲームで、人より早くその席に座っただけだ。
座っている誰かを押し退けるのとは、また別だ。
そう思った。
上司に相談したが、
「人間関係はうまくやらないとねえ」
とあしらわれた。
次の日から、部屋を出られなくなった。
毎晩、短い眠りの中で夢を見た。
自分を蹴落とした者と、自分が蹴落としたかもしれない者たちが現れる。
うっすら明るくなる窓の外では、早い蝉が鳴き始めていた。
目覚めかけては、また眠りに入る。
次に目覚めたのは、実家の自分の部屋。
実際にそんな感じだった。
退職の手続きから、部屋の解約、荷物の運び出し。
全てを両親がやったくれた。
諸々の作業の間、自分が何をしていたのか記憶にない。
「ゆっくりすればいいさ」
父に言われるままに、一週間ほどは家から出なかった。
自分の部屋と、リビングの往復。
ただ、その間、少しずつ夢から覚めるような感覚はあった。
散歩してくると告げると、
「気をつけてね」
声をかける母の顔は、
「大丈夫なの? 」と言いたそうだった。
日は傾いているが、暗くなるまでには帰れるだろう。
少し歩くと汗ばんできた。
息も上がってくる。
懐かしい公園のベンチで腰を下ろした。
呼ばれている名前が自分のものだと気がつくまでに、少し間があった。
振り返ると、彼女だった。
「隣、いいかな」
髪の毛は短くなり、染めている色もあの頃と変わっているがすぐにわかった。
問われるままに、その後のことを話した。
話せたという方が、いいかもしれない。
「そうなんだ」
彼女はうつむいた。
「あたしだってね、いろいろあったんだよ。でも、それよりね」
そのいろいろは、僕のいるところよりも、ずっと先の方にある気がした。
彼女は少し顔を上げて言った。
「ねえ、もし覚えてたら、あの時の返事してもいいかな」
僕と彼女は幼稚園から同じだった。
それを幼馴染というならそうだろう。
小学校に入るまでは、よく一緒に遊んでいた。
しかし、小学校も中学年になると、少しずつ男女の意識が芽生えてくる。
遠くに見るだけで、遊ぶことはなくなった。
中学校では、僕はなぜか学級長などによく推薦された。
もしかすると、自分にいちばん自信が持てた頃かもしれない。
僕は、彼女を呼び出した。
しかし、当時すでに変わり始めていた彼女は笑った。
「なに馬鹿なこと言ってんのよ」
夕陽が彼女の長いまつ毛を照らしている。
大学に行く前に、彼女を見かけたことを話した。
「あれはね、姉貴の子供よ。なんだ、とんだ誤解だね」
「ごめん」
「ねえ」
彼女の長いまつ毛がこちらを向いた。
「あの時の返事、してもいいかな」
僕はうなづいた。
もしかすると、彼女と手を繋ぐのは初めてだったかもしれない。
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