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誰かの日々に寄り添えるなら…noteを始めて気がつけば2ヶ月

noteを始めて気がつけば2ヶ月が過ぎている。

noteそのものの存在は以前から知っていたし、時々覗いていた。

ただ、自分で始めるには敷居が高そうだった。

どの記事を見てもテーマは興味深いものばかり、文章も上手くて少々長くてもつい引き込まれて読んでしまう。

投稿している方の経歴を見ると、ライターやデザイナーなどいわゆるクリエーターと呼ばれる仕事をしている方が目立った。

普通のサラリーマンとしてしか生きてきていない自分が、文章の勉強なんて正式にしたことのない自分が、ましてそれで生計を立てているわけでもない自分が、厚かましくのこのこと顔を出していいものか。


様々な集まりで時々、趣旨を勘違いしている人、場違いな人が混ざってくることがある。

自分もそんな人になってしまわないか。


しかし、今年36年間勤めた会社を退職することが決まった時、このタイミングしかないと思い始めてみることにした。

別に誰にも見られなくても、自分の表現欲を満たせればいい、手帳に殴り書きしているメモをもう少しきちんと書き記しておく場所でいい。

誰に迷惑をかけるわけでもないし。

そんな考えで始めさせてもらった。

ところが、多くの方にスキやフォローをいただき驚いている。

それがこんなに励みになるとは思わなかった。



学生時代に仲間を集めて同人誌を発行していた。

書店に置いてもらえるような代物ではない。

最初は、今では懐かしいガリ板刷りで作っていた。

ぺったんぺったん印刷をして、製本だけは業者に出していた。

少しして、福生の方に印刷から製本まで安くしてくれるところがあると聞き、そこに持って行くようになった。

横田基地の近くで、アメリカ人に目を合わせないようにして歩いていたのを覚えている。

活字になった自分の作品を見たときには、スティーブ・ジョブズがMacを開発した時と同じような感慨があった(違うかー!)。

出来あがった同人誌は、各教室を回って半ば強制的に売りさばいていた。

定価はあったが、もちろん値下げ交渉には進んで応じていた。


内容は、小説から詩、評論、エッセイなど、それぞれが書きたいものを載せていた。

僕は主に小説を書いていた。

そんな時にふと思った。

詩はよく誰に見られることなく自分のノートにひっそり書いていたりする。

エッセイも、それに近いものは日記に書いていたりする。

小説はどうだろう。

誰にも読まれることのない小説を、誰にも読ませるつもりのない小説を書いている人はいるのだろうか。


でも小説をそのように書いていくことは可能ではないか。

お父さんが日曜大工をするように、小説を書くことは可能ではないか。

読むことと書くことが表裏一体に例えられるなら、書くように読むことも、読むように書くことも可能ではないか。


誰にも覗かれない窓に意味はない。

窓はそこから日がさしてこそ窓である。

窓は誰かに覗かれてこそ窓である。

読まれない小説に意味はあるのか。

しかし、最初の、そして唯一の読者が自分であってもいいはずだ。

「日用作家」という創作方法があってもいいはずだ。


大学を卒業して就職をすると、日々の忙しさに追われてそんな考えも忘れてしまっていた。

それが、36年ほど経過した今、図らずも実現しつつあるのではないか。

しかも、読者は自分だけではない。


止むに止まれぬ思いを、日曜大工のように文章や物語にしていく。

そして、その言葉の織物が誰かの心に小さく響くことができるなら、誰かの日々に少しでも寄り添えるなら、それに越したことはない。

そんな思いが許される限り、noteという場をひっそりと使わせてもらおうと考えている。

















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