人はそれを「老衰」と呼ぶ
僕たちは何故健康に気をつけるのか。
巷では、健康に関する本や記事が溢れている。
あちらこちらで見るようになったジムも、健康を考えて通っている人が多いのだろう。
食物もそうだ。
薬やサプリもたくさんある。
人はいつから健康に気を使うようになってきたのだろうか。
もちろん、古くは貝原益軒の「養生訓」などがあるが、一般的に意識され始めたのは、1970年代あたりからではなかっただろうか。
その頃に、ルームランナーやぶら下がり健康器、紅茶キノコなどが流行した。
健康ブームなどと言われ始めたのもこの頃だったと思う。
「健康のためなら死んでもいい」などというジョークも聞いた記憶がある。
それだけ、人々の生活に余裕が出てきたということでもあるのだろう。
さて、それから半世紀が経過した今、僕たちは何故健康に気をつけるのだろうか。
若い人は、元気よく活力を持って楽しい日々を過ごすためだろう。
病気になればお金がかかるのでという理由ももちろんある。
ただ、最近は健康の方が高額だったりするが。
長生きするため、少しでも長く生きるためでもある。
そして、その長生きするためという理由は、歳をとるにつれて少しずつ切実になってくる。
もちろん、人だから、いつかは死ぬ。
それは避けられない。
しかし、健康に気をつけることで、その避けられないものを少しでも先送りしたい。
そして、もうひとつの願いは、健康に死にたい。
病気をせずに死にたい。
そのために、僕たちは健康に気をつかっている。
では、病気をせずに健康なまま死に至るとはどういうことか。
それは、老衰だ。
老衰とはどのような死に方か。
つまり、老衰とは究極の理想の死に方なのだ。
僕たちは、老衰を目指して、日々健康に気をつかい、お金を使っている。
この世に生を受けた時と同じように、自然にこの世を去っていく。
老衰。
これほど、理想的な死に方があるだろうか。
それなのに、ああ、それなのにだ。
この「老衰」という響き、字面、何となく、惨めったらしくないだろうか。
老い衰える。
もちろん、その通りだ。
でも、そこからイメージされるのは、痩せこけて、頬はこけ、半分口を開いたミイラになりかけの、カラカラに干からびた、肉体と物体の中間のような存在ではないだろうか。
そこには、生を全うした人に対するリスペクトのカケラも感じられない。
せっかく若い時から気を配り、お金もそこそこに使い、健康を維持して、認知症にもならずに、やっと漕ぎ着けた、夢にまで見た理想の死。
その呼び名が「老衰」とは、悲しすぎないだろうか。
いろいろな病名が、以前と呼び名が変わってきている。
同じように、この「老衰」も考えてみてはどうだろうか。
その人の死を聞いた時に、
「ああ、この人は、この様々な病気が蔓延している世の中で、最後まで健康を維持して、苦痛もなくこの世を去っていかれたのだなあ」
と思えるような呼び名はないものだろうか。
「僕は老衰を目指しています」
ではなくて、もう少し夢のある言い方はないものだろうか。
もちろん、どのような死も、どのような死に方であっても、人の生と死は尊ぶべきものであることは間違いない。
誤解のないように。
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