『赤と白と緑(緑)』 # あなぴり
(前半)
11月に入ったばかりだというのに、もうクリスマスソングなんて。
「気が早いのよ」
誰にも見えないように、菜穂子はふうっ、とため息をつく。
夕方のスーパーマーケットは、人でごった返していた。皆それぞれ忙しそうで、そして何より充実して幸せそうに見える。
「超目玉商品!小松菜88円」
と書かれた値札がなぜか、隣のほうれん草の方についており、客からクレームが来たとフロアマネージャーからのお叱りを受けたばかり。
「小松菜かほうれん草かなんて、見りゃわかるでしょうよ」
形ばかり、すみませんと頭を下げながら菜穂子は口角を下げる。
ああ、もう心底嫌だ。
このクリスマスソングの浮わついた歌声も、やたら充実感に溢れた買い物客も、毛玉のついたカーディガンに、「安さが自慢です」と書かれたエプロンをつけた私も。
なんか、自分まで安売りされてるみたい。
毎日毎日、おなじことの繰り返しだ。
菜穂子は自分のささくれた指先を見つめる。
9時から17時まで、倉庫とレジを往復して、なんとなく1日が終わる日々。
休みの日も、行くとすれば隣町のちょっとお洒落なスーパーだけ。そこで、うちの店には置いてないグリーンスムージーを買うのがちょっとした楽しみなのだ。
それだけ。
最近はメイクもしなくなった。
どうせマスクで隠れるし、だいたい私の顔なんて誰も見ていないんだから。
客が興味があるのは、20%引きのシールが張ってある商品が、ちゃんとその値段になってるかだけなんだから。
このまま、ぱさぱさに乾いて年老いていくのだろうか。毎年クリスマスソングに苛立ちを感じるおばさんになっていくのだろうか。
いま一番頻繁に着てる服が、この緑のエプロンなんて悲しすぎる。
「おつかれさまでした」
今時あり得ない、昭和感漂うタイムカードを印字し、菜穂子は同僚に声をかける。
ジジジ、と辺りに響く時代錯誤な音で、また憂鬱な気分にさせられた。
「おつかれさま。今日の特売イマイチだったよね。佐々木マネージャー、ありゃ売れ筋を読み間違えたわ。ねえ、そう思わない?まあ、また明日ね」
精肉担当の吉村が割烹着を脱ぎながら声を返す。
また明日。
また明日?
また明日、私はおなじ1日を過ごすんだろうか。野菜を棚にならべ、豆腐と蒟蒻の品出しと発注をし、レジが混めばレジに入る。
気にいらないことがあった客にちくちくと嫌みを言われ、ただすみませんと謝る。
朝から晩まで、うかれたクリスマスソングは流れつづける。
私はずっとここにいる。
ずっといる?
私…
あと何年、ここにいるの?
私には、幸せなクリスマスはもうこないの?
「吉村さん…あの…」
菜穂子の顔は真っ青だ。
目は何かを決意したように、見開かれていて、尋常でないのは見てとれる。
吉村は思わず、一歩後ずさりした。
「ど、どうしたの?菜穂ちゃん」
「ごめんなさい、マネージャーには明日連絡します。私…これもう要らない!」
バタバタと店から出ていく菜穂子が投げ捨てたものは、緑色のエプロンだった。
(後半)
えっ?
吉村祐美は菜穂子が出て行った後のドアを、しばらく見つめていた。
そして、ゆっくりテーブルに視線を移した。
緑色のエプロンが、ぽつんと置かれている。
えっ、また?
祐美は、パイプ椅子に腰を下ろした。
11月だというのに、街にはクリスマスソング。
いや、街どころか、この店のなかでも同じだ。
朝から晩まで聞かされている。
いつまでこんなことをしているんだろうか、わたしは。
今日もまた、菜穂ちゃんに。
いつもそうなんだ。
頭が痛くて早退したいなと思っても、言い出そうかどうしようか悩んでいるうちに、誰かが早退してしまって、もう言い出せなくなる。
2人も途中でぬけてしまえば回らない職場だ。
学生の頃もそう。
好きな男の子に告白しようかどうしようか、迷っているうちに、誰かに先を越されてしまう。
バレンタインだってそうだ。
いくつ、手作りチョコレートを無駄にしただろう。
クリスマスだってそうだ。
この歳になるまで、誰かと楽しく過ごした思い出はない。
今だってそうだ。
世間は楽しいクリスマスに向けて盛り上がっていくのに。
そして、いつだって強がっていた。
あの人は出遅れた人だよって、先を越された人だよって、そう言われたくなくて。
このままじゃいけないと思っていた。
わたしの人生はどんどん過ぎていく。
そのためには、まず仕事を変えなければ。
みんなが楽しむ時には、わたしも楽しめるような仕事。
何でもいい、みんなが休む時に同じように休めれば。
もちろん、あと足で砂をかけるような辞め方はしたくない。
11月になったばかりの今なら大丈夫だ。
すぐに募集すれば、年末の繁忙期までに新しい人に仕事を覚えてもらう余裕もあるはずだ。
今日こそ、辞めてやる。
そう思っていたのに。
また、先を越されてしまった。
菜穂ちゃんに。
あんなに頑張っていたのに。
まさか、菜穂ちゃんがそこまで考えていたとは。
わたしはまた先を越されてしまった。
自分が可哀想で、情けなくて、思わず笑ってしまった。
一度笑い出すと止まらない。
ドアがノックされる。
外からマネージャーの声。
「大丈夫ですか、吉村さん」
「え、ええ、大丈夫です。ごめんなさい。携帯で面白い動画を見ちゃって」
「気をつけて帰ってくださいね」
「ありがとうございます」
そういうと、今度は涙が出てきた。
ふと見るとLINEの通知が来ている。
菜穂ちゃんからだ。
「吉村さん、ごめんなさい…」
読み終えると、涙を拭いて返信した。
「わたしも…」
そして、一度だけ一緒に行ったことのある店の名を伝えた。
祐美は、小さな息を吐くと、手にしたままだった白い割烹着をテーブルの上に置いた。
頭に巻いていた赤いスカーフをほどいてその横におく。
菜穂が脱ぎ捨てた緑のエプロンと並べてみる。
今年のクリスマスはきっとひとりじゃない。
マネージャーには明日言おうと思った。
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