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『30年目の本命』 # シロクマ文芸部

チョコレートがテーブルの上に置かれている。
鞄を置き、ネクタイを緩める。
その隣には、「お疲れ様。明日早いので先に休みます」とメモがある。
チョコレートは、どこにでもある市販の板チョコだ。
包装紙の上には、マジックで大きく、
「本命30th」

背番号1が欲しくてもがいていた。
高校一年の3学期。
昨年の秋に新チームが結成されてから、何度か登板の機会は与えられたが、思うような結果は残せていない。
秋の大会でも、先発をさせてもらったが、どの試合も2年生に途中でマウンドを譲った。
毎日、居残りで走り込みと投げ込みを繰り返した。

ある夜、マネージャーが訪ねてきた。
彼女はひとつ年上だ。
家にあげるわけにもいかず、玄関の外で立ち話になった。
彼女はパーカーのフードを被っている。
「あんたさ、ちょっと力が入り過ぎてるの、見ていてもわかるよ。余裕がないんだよね、気持ちもそうだし、フォームにも。だからテイクバックも小さくなってるんだよ」
そんなことをわざわざ。
「それとこれ」
そう言って彼女は、チョコレートをパーカーのポケットから取り出した。
どこにでも売っている板チョコだ。
受け取って見ると、マジックで本命と大きく書かれている。
「これは」
「勘違いしないでよ。みんなで賭けてんだよ、誰がエースになるかって。で、わたしはあんたを本命にしたわけ」
訳がわからずに彼女を見つめると、
「とにかく、エースになったら食いな。食い逃げはダメだからね」
そう言って立ち去った。

あれから30年目のバレンタイン。
食い逃げは許されなかった。
あの時のことで、彼女に言っていないことがある。
あの時のチョコレートは、彼女のパーカーの中でかなり柔らかくなっていた。

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