『月の耳作戦』 # シロクマ文芸部
「月の耳作戦で行くで」
キャプテンの高田がミーティングで突然言い出した。
当然みんなの頭の上には「?」が、ポンポンポンと飛び出した。
「何や、それ」と4番の中井。
「秘密や」
「アホか、さっさと教えろ」
エースの樋口が突っ込む。
「とにかく、俺が『月の耳でいくでー』と言ったら、『よっしゃー』で答えてくれ」
「なんやと」「何でやねん」「アホ」
ベンチ裏は騒然とした。
「とにかく、キャプテンが言ってるんやからそうしようや」
最後は副キャプテンの僕がしめた。
予選の2回戦。
ランナーが出ると高田がベンチから、
「月の耳でいくでー」
ランナーは、
「よっしゃー」
何となく、相手のピッチャーが動揺しているのがわかる。
守っては、相手の4番が打席に入ると、キャッチーの高田が、
「サード、わかってるか、月の耳やでー」
サードの石田がグラブを上げて、
「よっしゃー、まかしとき」
4番打者は、バッターボックスでキョロキョロし始める。
だんだんみんな面白くなってきて、高田の「月の耳でいくでー」に、みんな声を揃えて、
「よっしゃー」とやるようになった。
スタンドでパラパラと笑い声が起きるのを、僕はライトの定位置から見つめていた。
結局その試合は、高田の作戦のせいかどうかはわからないが、1点差で勝った。
「で、月の耳て、なんなん?」
高田は話さなかった。
次の試合も高田の月の耳作戦だったが、さすがに強豪校には通用せずに、コールドで負けた。
「で、何やねん、月の耳て」
「もう、終わったんやからどうでもええやろ」
「あかん、教えろや」
「自分で考えろ。月の耳は月の耳や」
「考えてもわからんから聞いてるんや」
「考えてわからんやつには、言ってもわからん」
「卒業までに教えろよ」
「まあ、お前らも大人になったらわかるかな」
で、結局、高田は卒業式直前に、バイクの事故で亡くなったので、誰も真相を聞くことはできなかった。
あれから時が経っているが、知っているのは僕だけだ。
その僕が知ったのも卒業してから何年もしてからだった。
妻の美幸が教えてくれた。
美幸はあの頃、野球部のマネージャーで、キャプテンの高田と付き合っていた。
高田が月の耳作戦を思いついた経緯を美幸から聞いて、僕は少し嫉妬した。
僕は、美幸から聞いた話をまだ誰にも話していない。
多分この先、当時の野球部の連中とは何度も会うだろう。
でも、僕は話さない。
もちろん、みんなも薄々はわかっている。
でも、誰も話さない。
それは、美幸と高田の、2人だけの思い出なのだ。
僕は時々ベランダから月を見上げて考える。
あれからも、僕たちは何度も、いろんな月の耳に騙されてきたことを。
「月の耳は月の耳や」
そんな高田の声が聞こえてきそうだ。
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