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『世界の終わりの朝食』
突然、ヘッドライトが暗闇に飲み込まれた。
急ブレーキを踏む。
道はそこで終わりだった。
その遥か向こうで月明かりに光る波頭が、その下は海であることを示している。
「ふー、ここまでか」
俺は、ヘッドライトを消し、ギアをパーキングに入れた。
シートに体を預けると、自然に小さなため息が漏れる。
「ほい」
助手席から煙草が差し出された。
「持ってたのかよ」
「うん、死ぬ前には、もう一度吸ってからと思ってね」
深く吸い込んで煙を吐くと、軽い目眩を覚える。
「初めて吸ったときは、こんな感じだったよね」
「ああ」
助手席の窓が少し下がった。
煙が流れ出ていく。
「最後の煙草をお前と一緒に吸うとはな」
「こっちもね」
中学に入学するとそいつはそこにいた。
そんな感じだった。
教室に入って初めて目があったのがそいつだった。
そいつは、チハルと名乗った。
妙に馴れ馴れしい態度に嫌悪感しかなかった。
それに、野球部の自分と、文芸部のそいつとは、接点などあるはずもない。
それでも、昼休みには、必ず俺の弁当を覗きにくる。
「うわあ、ケンゴのお母さんのお弁当、すごいね」
無視しても、それに気づいているのかいないのか。
「このタコさんウインナーかわいいね。ひとつもらうよ」
また、こちらが読むはずもない本を押し付けてくる。
「これ、読んでよ」
「いいよ、どうせ読まないから」
「とりあえず、持って行ってよ。読まなくてもいいからさ」
国語の時間だったか、私の夢とかいうテーマの作文で、
「僕の夢は、ケンゴの朝ごはんを作ることです」
そんなことを書いてからは、もう最悪だった。
俺は、逃げるようにして、電車で1時間近くかかる私立の高校に入学した。
入学式の日、校門の前にチハルがいた。
「サプラーイズ!」
その高校は、甲子園出場の実績もある強豪校だった。
練習は、休みなく続いた。
チハルは吹奏楽部に入部した。
「お前に音楽の趣味なんかあったっけ」
吹奏楽部の練習後には必ずグランドにやってきた。
日が暮れるまで続く練習をじっと見ている。
同じ方向に帰るのがもうひとりいた。
野球部のアキラで、俺たちよりももうひとつ向こうの町から通っていた。
自然、3人で帰ることになる。
「ケンゴが甲子園でバッターボツクスに入る時のテーマ曲、何がいいかな」
「いらないよ、そんなの。プロじゃないんだから」
「オレはねー」
「アキラ、考えるなよ」
「だってさ」
「そんなことより、アキラはパパにお願いして、野球が上手くなる薬作ってもらえよ」
それは冗談でもあり、半ば本気の空想だった。
1年生だけでも、30人ほどいるのだ。
夏までには半分ほどに淘汰されると言われていたが。
俺もアキラも夏まで残った。
しかし、夏の予選にはベンチ入りできなかった。
1年生でベンチ入りしたのは、俊足を買われたやつ1人だけだった。
スタンドから声を枯らして応援する。
準決勝では、吹奏楽部とにわかづくりの応援団も加わった。
チハルもトロンボーンを吹いていた。
あんなに真剣なチハルを見るのは初めてだった。
首にタオルまで巻いた姿を眩しいと思った。
結局、俺たちの学校は、その試合で負けた。
そして、その年の大会が最後の大会になった。
俺もアキラも、もう甲子園を目指す事などできなくなってしまった。
そして、チハルは、俺のテーマ曲を練習することができなくなった。
世界は変わってしまったのだ。
それから多分5年くらいは経っているのかもしれない。
しれないというのは、もう誰も今が何月何日かなどと気にしなくなっていたからだ。
逃げる、食べる、寝る。
それだけの生活に、日付など必要ない。
もちろん、自分がどこにいるのかもわからくなっていた。
その晩、俺は追われて、その倒壊した建物に飛び込んだ。
灯りのある方に恐る恐る近づいてみた。
焚き火が、男の影を壁に映している。
銃を構えて、飛び出した。
「待ってたよ」
男はライフルを肩に担いだまま、こちらを見もせずに言った。
その横顔。
「チハル」
そこは、偶然にも俺たちの高校の校舎だった。
チハルはあの後、俺かアキラが必ずやって来ると思って、ずっとこの周辺を離れなかったらしい。
俺は、ここに逃げ込んだ経緯を手短に話した。
「逃げようよ」
「でも、あいつらは…」
チハルは俺を手で制すると、着いてこいと合図した。
暗い通路を少し進むと、広い場所に出た。
「ほらね」
そこには、見覚えのある赤いセダンがあった。
そうだ。
チハルの母親がごく稀にあれで学校に来ているのを見たことがある。
母親はと聞こうとしてやめた。
一緒にいないのなら、答えはわかっている。
その時、ヒタヒタという足音の近づいてくるのが聞こえた。
少しずつ数を増してくる。
「さ、早く」
チハルが助手席に乗り込んだので、仕方なく運転席に乗る。
エンジンをかけた。
ガソリンは半分ほど残っている。
建物が揺れ始めた。
変則ギアを掴む手に、チハルの手が重なる。
俺は、アクセルを踏んだ。
そして、俺たちは追い詰められた。
チハルが少しだけ開けた窓の隙間から、波の音が聞こえる。
それに重なって、ヒタヒタという足音も聞こえてきた。
運転席の窓も開ける。
煙草を投げ捨てた。
「まったく、しつこい奴らだぜ」
足音は少しずつ数を増し、波音よりも大きくなってきた。
もう逃げ場はない。
「お前の朝飯、食いたかったよ」
「ふん、そんなこと言うと後悔するよ」
チハルの服のポケットから小さな着信音がして、すぐに消えた。
「最後くらい、嘘ついてやるよ」
「最後、でもないかもね」
チハルは、器用に、窓の隙間から短くなった煙草を弾き飛ばした。
「いや、9回の裏ツーアウト、ランナー無しだな」
「でも、野球はツーアウトからでしょ」
そして、ポケットから携帯を取り出すと、こちらに見せた。
着信音はこれだったのか。
そこには、短いメッセージ。
「もう着く AKIRA」
驚いて、チハルを見る。
「もちろん、電波はあっちのだけどね」
その時、ヘリコプターの音が近づいてきた。
銃撃の音とともに、足音が止まった。
「あれが?」
「うん、アキラだよ」
「よし、行こう」
俺たちは車を飛び出した。
銃撃の間を縫ってヒタヒタと這い寄ってくる足音。
それを避けながら、ヘリコプターから下されたロープを目指す。
俺が最初にロープを掴み、もう一方の手でチハルの手をつかんだ。
ロープがゆっくり引き上げられる。
チハルの体が、一瞬小さく揺れた。
チハルこちらを見上げて笑った。
「あのね、明日の朝のメニュー…」
「お前、今頃何を」
チハルの首が垂れ、重みが増した。
俺は、チハルの名を何度も叫んだ。
その間にもロープは引き上げられた。
アキラが俺の肩をつかんだ。
「こいつなら多分大丈夫だ」
ヘリコプターの床に横たわるチハルを指さしてアキラが言った。
「こいつには、これを打ってある」
カーキ色のケースを座席の後ろから取り出した。
中にはアンプルがいくつか並んでいる。
「あいつらが体内から撃ってくるものは、骨の周りを脂肪で固めたようなものだ。それが、これも体内のどこかで生成された毒をまとって飛んでくる。この薬は、その毒を無毒化し、脂肪と骨は溶かして取り込んでしまう。オヤジの研究をオレが完成させた」
「じゃあ、お前も」
「いや、まずはチハルで実験してからだ。こいつが志願した」
「それじゃ」
「そう、こいつが目覚めれば実験成功。ケンゴにも打ってやるよ」
アキラは操縦席に戻る。
チハルが小さな咳をした。
俺はまだチハルの手を握ったままだった。
「明日の朝、何を作ろうと思ってたんだよ」
チハルの口が動いた気がした。
しかし、仮にそうだとしても、動き始めたヘリコプターの音にかき消されてしまうだろう。
下を見ると、赤いセダンのまわりであいつらが無数にうごめいている。
遠くでは、水平線がおだやかに、おだやかにほの白んでいる。
俺の涙は、チハルの頬に落ちた。
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