見出し画像

15の夜が残した問い

昨日の北京オリンピック、フィギュアスケート女子。
カミラ・ワリエワがリンクに登場した時の順位はこうだった。

1位 ROC アレクサンドラ・トルソワ
2位 ROC アンナ・シェルバコワ
3位 日本 坂本花織

この時点で日本のファンはまさに「絶望」したのではないだろうか。
ああー、ROCが、ワンツースリーかー。
我が家でも妻とこんな会話があった。
「ほらな。やっぱり、4回転の前には、どんな演技をしてもあかんのや」
「もう、坂本がメダルとるにはワリエワが失敗するしかないんかなあ」
「そや。それも、ちょっとくらいやったらあかん。こけまくらんと」

そして、ワリエワはこけまくった。
彼女は4位となり、上の順位がそのまま最終順位となった。

ただ、彼女がリンク上で我々に突きつけた問題は大きい。
15歳の少女の涙が、我々に突きつけた問い。
「ことここに至った時、あなたたちは私をどうするべきだったのか」

故意であれ過失であれ禁止薬物が検出されることはあってはならないことだ。

評論家やコメンテーターがこんな解説をしているのをよく耳にした。
「15歳の少女が故意にこんなことをするはずがない」
「15歳の少女にこんな知識があるはずはない」
この人たちは昭和の少女漫画しか読んでいないのだろうか。
今時15歳ともなれば、大人のやることは大抵やる。
今時小学生でも、スマホひとつで大抵の知識は確認できる。
あまりにも、15歳を見くびり過ぎていないか。
もちろん、ワリエワがそうだというわけではない。

いずれにしても、薬物検出はあってもならないことだ。
しかし、今回の件に関して言えば、本来大会前に解決しておくべき問題だったように思う。
あるいは、大会後にあらためて明らかにしてもよかったのではとも思う。

さかのぼりだせば、そもそもROCとして参加を認めることが妥当なのか。
政治とは無関係のはずのオリンビックがあまりにも、政治の一部になっていないか。
オリンピックはあまりにも商業化され過ぎていないか。
バッハは本当にぼったくり男爵なのか。
等々、キリがない。

現実は、大会中に今回のドーピング問題が明らかになった。
その時、大人たちは、ワリエワをどうするべきだったのだろうか。
表彰式も含めた、大会運営をどうするべきだったのだろうか。

大人たちのくだした判断はこうだ。
選手としての出場は認める。
ワリエワの順位については暫定的なものとする。
ワリエワが3位以内に入ってもセレモニー、メダル授与式は行わない。
ビン・ドゥンドゥンもあげないよ。

理由は、ワリエワが15歳であるということ、出場停止にした際の彼女の将来に与える影響を考慮してとのことらしい。

セレモニー等を一切行わないという、他の選手まで巻き込む判断は果たして正しかったのか。
15歳の少女にそこまで背負わせることは妥当だったのか。

ワリエワの今回の成績が、一連の騒動の影響を受けてのことなのか。
あるいは、単純なミスなのか。
これが、彼女の実力なのか。
本人にしかわからない。
あるいは、本人もわからないかもしれない。

とまれ「絶望」とまで言われた彼女は転倒し、涙した。
15歳の少女は、恐らく答えの出ない問題を我々に残して大会を去る。
「ことここに至った時、あなたたちは私をどうするべきだったのか」
我々はその問いに答え続けることができるだろうか。
考え続けることができるだろうか。

できうれば、4年後にまた戻ってきてほしい。
今度は全てをクリーンにして。
そして、どんな涙も報われることを証明してほしい。
オリンピックという場がそれにふさわしい場であることも、切に願う。

この記事が参加している募集

スポーツ観戦記

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?