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『父の古い缶』

私は、洋一の前にコーヒーを置くと、大きくため息をついた。
「あーあ」と思わず声まで出てしまった。
「ごめんなぁ」
「大丈夫やで」
すんなり終わるとは思っていなかった。
何かあるとは思っていた。
何かやらかすだろうとは覚悟していた。
しかし、まさか、こんなことをしでかすとは。

いつの頃からか、私は父のことをおっさんと呼んでいた。
なぜなら、どうしようもないおっさんだったからだ。
母は、私が幼稚園の頃に亡くなった。
亡くなった時の記憶はある。
妙に顔が黄色くて、その後幼稚園に行った時に、
「人は死んだら、黄色になるんやで」
とはしゃいで叱られたのを覚えている。
しかし、母が生きていた時の記憶はほとんどない。
胃がんが原因だということは、ずっと後に、京都のおばさんから聞かされた。
母の姉にあたるその人は、あの時にもっと早く医者に見せていればと、横目で父を睨んだ。
父は、気にもせずに冷や酒をあおっていた。

父の記憶といえば、飲んでいることしかない。
仕事は転々としていたようだ。
朝早くに出ていくこともあれば、夕方から出かけて翌日の夕方に帰ったくることもあった。
家にいる時には、飲んでいるか、寝ているかだった。
だから、私も話しかけることはなかった。
たまに話しかけても、無視するか、怒鳴られるだけだった。

何か欲しいと言っても、聞いてもらえることはなかった。
小学生なら、女子の中で流行りの筆箱や鉛筆がある。
そんなに高価なものではない。
それでも、いくらねだっても買ってくれることはなかった。
もちろん、そんなに余裕があるわけではないのは知っている。
しかし、
「おとうちゃんの、その酒を我慢したら買えるやろ」
くらいのことは、小学生でも口にすることができた。
父は、黙って酒をあおった。

わざと、わがままを言ったこともある。
友人が夏休みに旅行に行くと、同じように行きたいと泣いた。
行けないのはわかっている。
ただ、困らせたくて、足を畳にバタバタと打ち付けた。
それでも、父は酒をあおるだけだった。
あげくには、うるさいと怒鳴って寝てしまう。

中学生なると、期待もしなくなった。
こっそりアルバイトをして小遣いを作った。
父には、面と向かって「おっさん」と言えるようになった。
「おっさん、いつまで飲んでんねん」
「おっさん、早よ仕事行け」
もう、父ではなく、同居する腹の出たおっさんだった。

高校を出ると就職した。
小さな運送会社の事務職だ。
年上の、ドライバーとの会話は楽しかった。
年齢は父と同じくらいでも、父の何倍もしっかりして、家族想いの人たちだった。
洋一はドライバーの中では、いちばん若かった。
26歳でバツイチ。
子供はいない。
年齢の近い私たちはすぐに行動をともにするようになった。
前の奥さんは、病気で亡くなったらしい。
彼が30歳になる手前で、結婚しようと言われた。

彼は、その前にどうしても父に挨拶したいと言って聞かなかった。
「あんなおっさん、どうでもいいよ」
彼からは、おっさんはやめなさいと何度も叱られたが、なおせなかった。
執拗に彼が言い張るものだから、何とか日を決めた。
「おっさん、この日は絶対に家にいてや。それと、飲んでたらあかんで」

そして今日。
嫌な予感は当たった。
父はいない。
洋一と2人でコーヒーを飲んでいると、玄関がガタゴトと開いた。
その音で、父だとわかる、しかもどこかで飲んできたなと。
父は、ゆらゆらと入ってくると、どさりと座り込んだ。
「なんや、まだいたんか」
「まだやないやろ。何や、おっさん、飲んできたんか」
つかみかかろうとする私を洋一が止めた。
そして、父に向かって、私と結婚したいと早口で言った。
父は、目を宙に彷徨わせた。
「ああ、その話な…」
立ち上がると、一升瓶とコップを3つ持ってきた。
「こいつ…」
立ちあがろうとする私の膝を洋一が抑える。
「どや」
「いただきます」
父は、3つのコップに酒を注いだ。
そして、言った。
「あのな、その話やけどな」
私を指差す。
「俺とこいつとニコイチでどやろ。それでもよかったら、ええで」
「おっさん、ニコイチて、わけわからんことを言わんといて」
私はまた洋一に押さえつけられた。
「結構ですよ。ニコイチでも」
洋一は笑いながら答えた。
「あかんて、そんなん…」
暴れそうになる私をよそに、父はどこからか小さな缶を出したきた。
かなり古いが、見覚えはある。
子供の頃、京都のおばさんがくれた、お菓子が入っていた缶だ。
「これ、あんたに渡しとくわ」
洋一の前にそれをおくと、父は、またゆらゆらと出て行った。
「ほな、ニコイチで頼むわな」

洋一が缶のふたを開けた。
中には小さな紙切れがいっぱい入っていた。
チラシを四角く切った紙だった。
そのチラシの裏には、私が子供の頃にねだったものが、下手な字で書いてある。
どれも、覚えがあるものだ。
鉛筆のキャラクターの名前や、足をばたつかせて行きたいと言った場所。
そして、一番上の新しい紙には
「洋一、結婚したい」
と書かれていた。
洋一がふたを裏返すと、そこには太いマジックで、
「願いがかないますように」と、これも小学生みたいな字で書かれていた。
「あいつ、あのおっさん、字、下手やねん」
私はコップの酒をあおった。














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