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『息子は死にましたよ』

これは事実をもとにした物語である。

その朝、銀行のシャッターが上がると同時にその男は彼女の目の前に立った。
背は高くないが少し太り気味。
40歳くらいだろうか。
左目と比べて右目が極端に細い。
「母が亡くなったんですけど」
カウンターの向こうに腰をかけてそれだけ言った。
この歳で、他人と話すのに慣れていないようだ。
「お母様がお亡くなりになられたのですね。
ご愁傷様です。大変でしたね」
よくある相談ではある。
恐らく口座をとりあえず止めたいのか、名義変更したいのだろう。
念のために男の年齢を尋ねた。
「42ですけど」
尋ねられて不服そうなところに、性急な性格が見てとれた。
「名義変更したいんですけど」
「かしこまりました。少々お待ちください」
母親の口座を確認する。
思わず息を呑んだ。
金額から察するに、この母親は、この銀行に現金をすべて預金している。
全額が保護される無利息型で。
つまり、全額を補償しますが、その代わりに利息はつきませんよという預金だ。
金額をもう一度見た。
彼女が夫と2人でようやく手に入れた郊外の一軒家を何軒も現金で買える。
彼女は思わず、2軒、3軒と数え始めていた。
気を取り直す。
「それでは…」
母親の夫、つまり本人の父親はもう亡くなっているとのこと。
遺書もない。
続けていくつかの確認をした後、手続きを説明する。
必要な書類一式を手渡し、それではと頭を下げる。
顔を戻したときには、男の姿は消えていた。
彼女は、左目は驚いているのに、右目で睨まれている、そんな感じだったと同僚に話した。

書類は1週間ほどで郵送されてきた。
普通は仕事の合間に動くことになるので、もう少し時間のかかることが多い。
それに、親の死後の手続きなど、大体は初めてのために、書類に不備もある。
しかし、確認したところ特に問題はなさそうだ。
すぐに一件書類を回して、それから3週間余りで手続きは完了した。
その間、何度も催促の電話が入った。
「急いでるんですけど」
「もう2週間になるんですけど」
語尾に「けど」をつける男はクレーマー体質だ。
今夜の夫との酒の肴にしよう。
こっそり思った。

仕事で、おかしなことがあれば、夫との話題にする。
自分で引き下ろしておいて、何故人の金を勝手に使ったと怒鳴ってくる若い男。
母の預金が必ずおたくにあると、何の証拠もなく言い張る中年の女。
もちろん、夫とはいえ、どこまで具体的に話すかの節度は心得ていた。
そして、今夜は「けど」男の話題。
サービス業の夫も、これまでのクレーム体験を話し始めて、盛り上がった。
新築の匂いの残る、まだ2人ともなじんではいないリビングで。
何となく落ち着かない椅子に、酔った身体を笑って揺らしながら。

その母親が、窓口に現れたのは1週間ほどしてからだった。
「どうして、私の口座が無くなっているのかしら」
ことの大きさの割には、冷静な口調だ。
年齢は70歳を超えているが、背筋は真っ直ぐに伸びている。
そのため、実際よりも身長は高く見える。
「どうして、私の口座が無くなっているのかしら」
同じ口調でしっかりと繰り返した。
ホール全体が凍りついた。

とりあえず、担当した彼女と上司が別室に案内して、ことの次第を説明した。
母親と名のる女性は黙って聞いていた。
その女性が本当に母親だと確認できたわけではない。
しかし、女性の極端に細い右目が、窓口に来た男と親子であることを告げていた。
彼女の話が終わると、女性は唐突に言った。
「息子は死にました」
「えっ」
彼女と上司は顔を見合わせた。
「私の息子はずっと前に死にましたよ」
彼女は震えだす手ををテーブルの下で握りしめた。
状況を理解しようとするよりも、恐怖が勝った。
とにかくこの場から早く解放されたい。
長い沈黙のあと、上司が言葉を絞るように言った。
「わかりました…そうだとすると…これは詐欺かもしれません。一度、こちらでも…調査させて下さい」
細い右目は虚空に向いていた。

食事の後、その夜もリビングに落ち着いた。
ワインを手に、その日の出来事を夫に話す。
この間の「けど」男の話なんだけどね…
夫も、それは新手の詐欺かもねと笑った。
「でも、親子には違いないわ」
「そのどちらかが幽霊かも」
「やめてよ」
あるいは、2人とも幽霊だったりしてと思った。
テレビをつける。
「本日、午後5時頃、長らく空き家と思われていた家で、元々この家に住んでいた親子と見られる遺体が発見されました。
警察によりますと、2人とも病死と思われ、死後数年は経過して…亡くなられたのは…」
彼女の手から、グラスが落ちた。
右目の細い2つの顔が、彼女を見つめていた。

その後、今回の手続きは無効とされた。
預金は結局、突然姿をみせた母親の妹が手にすることになった。
終始浮かべていた薄笑いが印象的だった。
姉や甥が亡くなって数年も気がつかないのだから、その関係性は推して知るべし。
彼女は、むしろこちらのことに、背筋の凍る思いがした。
今夜、夫に話をしようと思った。

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