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『彼女の12月14日』

彼女は後悔していた。
もう30分も歩き続けている。
バスにすればよかった。
彼もLINEに書いていた。
今度の部屋は駅から遠くてバスを使っているんだよ。
でも、彼はバスで来るといいよと言ったわけではない。
こちらも行くとは言っていない。
バスにしようが歩こうが、彼にはわからない。私自身の問題だ。
スマホのGoogleマップでは次を左。

大体人を馬鹿にしていると思う。
彼女は肩にかけたトートバッグからペットボトルを取り出して水を一口飲んだ。
大体馬鹿にしている。
私が実家に帰った途端に、入れ違いに都会に出るなんて。
仕事だとは言っていたけれども、あれは違う。
違うはずだ。
あんなに一緒に暮らそうと言っていたのに。そもそも、戻ってこいと言ったのは彼だ。

声優を目指して上京した。
アルバイトをしながら専門学校に通った。
受けたオーディションの数は数えられないくらい。落ちた数はそれとイコール。
みんなから声が可愛いと言われた。
アニメの声を真似してアテレコすると、みんな「きゃあ、そっくり」と言ってくれた。
それで、私は声優になろうと思った。
つまり、と彼女は坂道を見上げた。
つまり私はいい気になっていたのだ。
彼は戻ってこい、こっちで暮らそうと言ってくれた。
私は都会を後にした。それなのに、少しして、彼は都会に出た。

坂道の上から冷たい風が吹いてくる。
両手をコートのポケットに突っ込んだ。
実家のある山の麓の町でもおろしが吹く。
ここも12月なんだと当たり前のことを思った。
長い坂道を見上げるとますます後悔の念が強くなる。
バスにすればよかった。
駅前にはタクシーも止まっていた。
もったいないと思った。
彼女は自分がもったいないと思ったことが少し誇らしかった。
何となく、主婦みたいじゃない。

主婦になりたいなどと言うと、最近は叩かれるんだろうな。
今は多様性の時代。価値観も多様性だ。
でも多様性なら、私みたいな古い価値観も認められてしかるべきだ。
彼女は坂道を登り続けた。まだ終わりそうにない。
Googleマップではこれを登りきったあたりだ。

彼女はその日の早朝、ふと思い立ったのだ。彼と暮らすべきだと。
荷物をトートバッグに詰め込んで始発に飛び乗った。
彼には知らせていない。彼が何と言おうと、転がり込む。
そこに別の女がいたとしても、かまわない。
多分、私は冷静に言える。そんなキャラになりきれる。
出ていけ、このメス豚。
どの声がいいだろう。
心の中でいろいろ試してみた。

ベージュのトレンチコートは彼とお揃いで買ったものだ。
スパイみたいだねと彼が言うものだから、私はサービスした。
峰不二子の声で。
坂道で彼女は周りに人がいないのを確認すると、彼の名前を口にした。
峰不二子の声で、小さく。

登りきったところの右手に目指すアパートはあった。
木造の2階建て。5部屋ずつの小さなアパートだ。
手前には駐車枠が5台分。今は1台だけ止まっている。
2階の左からふたつ目が彼の部屋だ。
LINEのやりとりで部屋にいることはわかっている。

足がすくむ。

今日は12月14日だ。彼女は思った。
おのおの方…
昨年亡くなったおじいちゃんが、この日になるとよく言っていた。
おのおの方、討ち入りでござる。
彼女はトレンチの襟を立てて歩き出した。

「討入の日やトレンチの襟たてて」
              黛まどか


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