『わかっているわ』
あなたがいつから私を見ていたのかは知らない。
気がついた時には、あなたは常に私の視界の片隅にいた。
ここは大丈夫だろうと思っても、あなたは騙し絵のようにどこかに隠れている。
そして、私を見つめている。
ぼんやりとした、モザイクのような背景の中から、あなたが浮かび上がってくる。
その時の、私の気持ちがわかりますか。
いえ、あなたにはわからないでしょうね。
もしわかっていたなら、私にあんなことはしなかったでしょうから。
私が初めてあなたに気がついたのは、あの朝のこと。
夏も終わり、暦の上ではもうとっくに秋なのに暑い日が続いていた。
私はいつも通り部屋を出た。
最近新しくなった駅には、通勤の人たちがどんどん吸い込まれている。
私もその渦に入ろうとした時、こちらに向けられる視線にきがついた。
渦に巻き込まれる流れの外に、ポツンと立つあなたがいた。
知らない人と目が合うことなど、珍しいことではないわ。
私は特に気にもしなかった。
今にして思えば、都心へ向かう列車の中でも、あなたは私を見つめていたのでしょうね。
驚いたのは、オフィスのあるビルの入り口で私の先を歩いていた男性が振り向いた時。
どうしてあなたがそこにいるのか。
私は、そこから動けなくなった。
そんな私にはお構いなく、あなたは歩いて行ってしまった。
その夜、私は眠れませんでした。
これがどういうことなのか。
次の日からは、私も用心した。
あなたに見つからないように、努力したのよ。
駅には、あなたが改札を通ってから入る。
電車にも、あなたの後から乗り込む。
オフィスのあるビルには、近くで少し待ってから入るようにする。
それから、私も少し調べました。
そのビルの中で、あなたがどのオフィスで働いているのか。
これには、時間がかかりましたけれどね。
それでも、あなたは私を解放してはくれなかった。
休日に出かけた時にも、あなたは現れた。
ショッビングモールの長いエスカレーターで振り向くと、あなたこちらを見て笑っていた。
ゆったりできるはずのカフェでもそうだった。
明るいガラス張りの店内、外が眺められるカウンター席。
あなたは、そこでも、外を通る私に微笑みかけた。
だから、私はその店に入るのを諦めた。
仕方なく、少し離れた、あなたからは見えないベンチで時間をつぶしたわ。
仕事が終わっての帰り道でもそうだった。
私の少し前を歩く男性。
私の歩調に合わせて歩いているのは明らかだった。
私のヒールの音に、履きつぶした革靴の音が重なる。
2人の足音はひとつになって、暗い通りに響く。
街灯に照らされた横顔に、私はもう驚きもしなかった。
あなたはどんな気持ちだったのかしらね。
それで、女性リードする男性、女性守る逞しい男性、そんなつもりだったのかしら。
あなたはエスカレートした。
私が通勤の経路を変えても、あなたはついて来た。
乗り換えの駅で、いつもと違う路線を選んでも、あなたはいた。
私の少し前に、隠れようともせずに。
そして、振り向いて、はっきりと私を見つめるようになった。
もちろん、私だって負けてはいなかったわ。
あなたの視線に、しっかり私の視線を絡めてみた。
あの時の、あなたの驚いた顔、今でも笑っちゃうわ。
そんな2人に転機が訪れた。
私のあなたに対する気持ちが変わったのはあの夜のこと。
いつものように私の前を歩くあなたが突然立ち止まった。
私も立ち止まった。
私は恐怖から咄嗟に来た方に走り出した。
でも、当然男性のあなたにはかなわない。
私の前に回り込んだあなたは、私の両肩に手をかけて言ったの。
「お願いだ。もうやめましょう。助けてください」
私は、一瞬、あなたの言葉が理解できなかった。
でも、すぐにわかったの。
この人は苦しんでいる。
見ず知らずの私に、助けを求めている。
「わかりました」
それからの私は、あなたを苦しめているものが何なのかを探り始めた。
それはすぐにわかったわ。
きっと、あの女が生きている限り、あなたは幸せにはなれない。
いつも、あなたにつきまとって苦しめている、あの女がこの世にいる限り、あなたには平穏な夜は訪れない。
私は、すぐにあなたに教えてあげたかった。
その場から、もう大丈夫よと。
もう心配しなくてもいいのよ。
女のバッグの中に携帯があった。
そこから、あなたにメッセージを送った。
すぐに既読がついた。
そして、折り返しの電話。
あなたは、取り乱していた。
無理もない。
いきなり解放されたのだ、あの女から。
だから、私は黙って聞いていた。
あなたが、罵声を浴びせるのも、黙って聞いていた。
あなたは、まだ、私とあの女を取り違えているのだ。
仕方のないこと。
わかっていたのよ。
あなたは、今、私に会いたくて仕方がないのよね。
わかっているわ。
あの夜から、電話にでないのには理由があるのよね。
あなたは、今が私の大切の時だとわかっている。
だって、あなたのためにあんなことをしたんだものね。
もう、堂々と歩けなくなってしまった。
人目を忍んで生きていかなくてはならなくなった。
わかっているわ。
でも、苦しいのはあなた。
会いたいのに会えない。
ひとりじゃないのよと言ってあげたい。
あなたは今夜も我慢している。
今すぐに会いたいのに。
今夜もドアの前に立つ私に。
ドアを開ければ会えるのに。
知ってるのよ、そこにいるのは。
どうしたの。
勇気がないのね。
そうよ、幸福を手にするには勇気がいるの。
だから、今夜は特別に私の方からノックしてあげる。
わかっているわ。
ほら、出てらっしゃい。
わかっているの。
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