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『深夜の公園』

眠れない夜が続いている。
心配事があるわけでもない。
仕事も、今度の職場では順調だ。
来月には主任に昇格されるからねと、社長から言われている。
それなのに、夜になると眠れない。
眠たくはなるのだが、布団に入ると、その眠気がどこかに行ってしまう。
高さを快適に調整した枕の上で、目をキョロキョロさせて探してみるのだか、逃げ足の速い眠気はもう近くにいそうもない。
医者に睡眠薬を処方してもらうことも考えたが、癖になると聞いて躊躇している。
それに、本来ならそんな薬を飲まなくても眠れるはずなのに、どうして自分だけが、それを飲まなくては眠れないのか。
もちろん、もともと睡眠薬として作られているのだから、それを服用しているひとは少なからずいるのかもしれない。
それでも、人口の数パーセントにも満たないのではないか。
それは、つまり眠るという行為においては、負け組ということではないのか。
そして、こんなことを考えているから、ますます眠れなくなるのだ。
不眠症で死んだ奴はいないそうだぜ。
同僚のMはそう言って笑った。
別に死ぬのが怖いわけではない。
死なないために眠っているわけでもない。
ただ、眠りという、恐らく生きとし生けるものものにとって共通の快楽。
それを味わいたいだけなのだ。
みんなが享受している眠りをなぜ自分だけが受け取れないのか。
視界の端を何かが横切った。
そして、カーテンをすっと揺らして、換気のために開けている窓の隙間から外に逃げていった。
眠気だと思った。
眠気が逃げ出した。

眠気のいない部屋にいても、眠れるわけがない。
起きて外に出た。
眠気が、猫のようにまた同じ家に戻ってくるのかどうかはわからない。
それに、と歩きながら考えた。
それに、今ここで眠気に出会ったとして、それが自分の眠気なのかどうかはわからない。
自分の眠気をそんなにまじまじと見つめたことなどない。
もし他人の眠気を持ち帰ってしまったら、それは窃盗になるのだろうか。
しかし、盗まれたと言うそいつだって、それが自分の眠気だと、どうして証明するのだ。
いやいや、そんなに真面目に考えることもないのかもしれない。
案外、眠気というやつは、人から人へと渡り歩いているのではないか。
そして、みんなも、誰もそんなことをあらためて大きな声では言わないが、やってきた、誰のものともわからない眠気と、一夜限りの快楽を貪っているのではないか。
眠気とは、本来、そんな淫らなものなのかもしれない。
眠るという行為は、そんなスリリングな大人の遊びなのかもしれない。

夜の公園は薄暗い灯りに滲んでいる。
ゆっくりと足を踏み入れる。
それだけで、何かを逸脱しているような錯覚に陥る。
キリンの小さな滑り台があった。
キリンが首を垂れて、その首の部分を子供たちが滑るようになっている。
大人なら足をついまま尻を滑らせることができる程度の高さだ。
汚れてもいいズボンだったので尻を滑らせてみた。
滑らせてみてから気づいた。
それはキリンではなく、キリンの滑り台の格好をした友人のKだった。
Kは気づいているのかいないのか、大きな瞳で前を見たまま何も言わないので、こちらも気づいていない振りをした。
このまま滑り続けるのは気が引けるので、隣のパンダのベンチに腰掛けた。
それは、幼なじみのNだった。
Nは眠っているのか、小さないびきをかいている。
積もる話もあったが、今度にするべきだ。
起こさないように立ち上がった。
公園を出る時に、去年亡くなったはずのSとすれ違った。
キリンとパンダのことを教えてやろうと思ったが、彼ならわかるだろう。
それに、何と言っても彼はもう亡くなっているのだ。
振り返ると、思った以上に公園は小さかった。
もう二度とその公園に来ることはないだろう。
少し明らむ東の空を見ながら、今ならゆっくり目覚めることができるのではないか。
そんな期待を抱いた。
眠気が戻っていても、いなくても。
家路があるのなら。

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