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『大谷翔平の右腕』

待ち合わせの駅に着き、指定された番号に電話をする。
男は、近くのビルの地下にある喫茶店を指定してきた。
この界隈では有名な老舗だ。
傘をさして歩き始めた。
雨の午後。
人通りはまばらだ。

仕事も私生活も上手くいかずにふさぎ込んでいた。
友人は気を使って冗談を言うが、笑う気にもなれない。
そんな時、不思議なメールが届いた。
怪しいのはわかりきっていたが、失うものなど何もないと返信してみた。
すると、そこの者だという男から連絡が来たのだ。

狭くて急な階段を降りる。
重そうな木のドアは案外軽く開いた。
明るさを抑えた店内は、半分ほどの席が埋まっていた。
左手の奥の席から男がこちらを見つめている。
軽く頷いてそちらに向かった。

コーヒーが運ばれてくると、男は待ちかねたように口をつけた。
それを見てこちらもひと口飲む。
男はカップを目の前に掲げるようにして言った。
「いやあ、やはりコーヒーはこの店に限ります。この、コクがありながらすっきりとした飲み口。他では出せませんよ」
こちらも軽く微笑んでおく。
早く確認したいという本心を悟られないように。
こうした話は足元を見られてはいけないのだ。
「すみませんねえ、わざわざお呼び立てして。でも、物が物ですから、お目にかかってお話ししておいた方がお互いに安心だと思いましてね」
思わず乗り出してしまった私を男はさえぎった。
「大丈夫です。信用してください」
男はまたコーヒーをひと口飲んだ。
「正真正銘、本物の、大谷翔平の右腕です」
男は話し出した。

博物館に展示してあるのは、実はレプリカです。
今から70年ほど前、彼が引退した時に、私の先先代、私の祖父ですね、それが直接譲り受けたんですよ。
ロッカールームで、目の前で取り外してね。
その時の写真がこれです。
3枚目は、大谷が一般人の右腕を装着したところの写真です。
これだって、私どもの最高級品なんですけれどね。
何となく、ほっとした表情がいいですよね。
やり遂げた人の顔ですよ。

祖父は野球界にはかなり顔が効いたようです。
私どもは、過去に、江夏の左腕、王の左足、福本の右足、長嶋の右手首、イチローの右肘、変わったところでは、新庄の心臓なんてものも取り扱ってきました。
新しいものでは、佐々木朗希の右肩もありますよ。
どれも、本物です。
新庄なんかは、一旦取り外した心臓をまた返してくれと言ってきたそうです。
でも、最後は気持ちよく譲ってくれました。
その後、どれも、ふさわしい人のところに引き取られていきましたね。

もっと記憶に新しいプレーヤーのものも持ってますよ、私たちは。
でも、戦い続けた人の体は、すぐには私たち一般人には使いこなせません。
細かく修正しないとね。
ええ、すべて手作業です。
それと、やはり一般人に合うように熟成させなくてはなりません。
なんだかんだで、少なくとも半世紀は必要です。

もちろん、江夏の左腕が、最初から江夏の左腕だったわけではありません。
王の左足が、最初から王の左足だったわけではありません。
最初は、あなたや私と同じ、一般人の腕や足だったのですよ。
それを、コツコツ、作り変えていったのです。
誰にでもできることではありません。
一部の天才だけがなしうる技なのですよ。
中には、金を出して開発しようという輩もいました。
でも、うまく行くはずがない。
そりゃそうですよね。
江夏の左腕、大谷の右腕、王の左足、イチローの右肘、長嶋の右手首、福本の右足、新庄の心臓、そんなものをひとつにまとめたって、それだけで一流の野球選手になれる訳ではないのですからね。
それは、例のロボットのチームだけで結成したロボットリーグが失敗したことからも明らかです。

話が逸れて来ましたね。
大谷翔平の右腕、現物は必ずお送りします。
貴重品なので、置き配はできません。
それと、お送りするにあたっては条件があります。
私どもは、観賞用に取り扱っている訳ではありません。
実際にそれを装着して欲しいのです。
それをつけて、生活して欲しいのです。
でも、ここが肝心なところですが…

男はそこで、顔をぐっと近づけた。
「大谷翔平の右腕を装着したからといって、誰もが大谷翔平になれるわけではありません」
口を開きかけた私を制して、男は続けた。
「大谷翔平の右腕に相応しい人だけが、大谷翔平の右腕を装着できるのです」
コーヒーを飲み干すと、男は立ち上がった。
「あなたがそうだと判断された時に、あなたが大谷翔平の右腕に相応しいとわかった時に、間違いなくお送りします」
「どうすれば」
「ほらね、もう始まっていますよ」
そして、レシートを手に取ると、
「それでは、お楽しみに」

呆気に取られた私が我に帰った時には、男の姿は店内になかった。
慌てて立ち上がり、木のドアを開けると、急な階段を駆け上った。
思わず両手で顔を覆う。
雨は止み、薄陽が雲の間から差し込んでいた。
光は、一直線に私の顔に降り注いでいるようだった。

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