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『乗り逃げ犯』

休憩室の片隅で数人が憤慨している。
「またやられたよ」
「俺も、この間やられたんだ」
ここのところ、乗り逃げ被害が続いていた。
もちろん、タクシーの乗り逃げなど珍しいことではない。
それが少額なら、わざわざ被害届を出して調書を取っている時間がもったいない。
その時間に仕事をすれば十分に取り返せる。
それに、そこそこの金額で常習犯でもない限りは、警察も真剣に探したりはしない。

もちろん、怪しい風体ならこちらも気をつけるし、はなから気づかないふりをして通り過ぎることもある。
しかし、今話題になっている乗り逃げ犯は、女2人組。
車内での話しぶりから親子のようだ。
身なりからはそこそこ金のありそうな雰囲気らしい。
しかも、繁華街の中でも高級な店の集まるエリアから乗ってくる。
だから、こちらもついつい油断してしまう。
手口はシンプルなものだ。
マンション前に来ると、
母親の方が、
「あら嫌だ、さっきの店にお財布を忘れちゃったみたい」
そして、現金を持ってくると言って降りていく。
ただし巧妙なのは、それがマンションの玄関口ではなく、
「マンションはその道を曲がったところなの。車だと狭いからここで待ってて」
そして、最初は娘が車内に残っている。
だからこちらも疑わない。
しかし、しばらくすると、
「遅いわね。運転手さん、少し見てきます」
親子とも戻ってこないので、「その道」を曲がったところを見に行くが、そこにマンションなどはない。

それが同じ場所なら、話を聞いていれば引っかかることはないが、不思議なことに送り先はバラバラだ。
その度に変わる。
だから、その動機もわからない。
愉快犯なのか、それとも毎日寝ぐらが変わっているのか。
車載カメラから顔写真をプリントして車内には掲示してあるが、それほど鮮明ではない。
それに、女の顔などいくらでも変えられるだろう。

離婚をしてから、生活は荒れた。
荒れたと言ってもしれている。
朝から酒を飲み、会社も無断欠勤するようになった。
それだけだ。
それだけだが、会社は辞めざるをえない。
依願退職の扱いにはしてくれたので、わずかばかりの退職金は支払われた。
それを元に、安いアパートに引っ越した。
蓄えがつきそうになり、仕事を探したが、なかなか経験を活かせるような仕事は見つからない。
入社をすれば祝い金がもらえるというので、タクシー乗務員になった。
祝い金とはいえ、決められた年数は在職しないと返済の義務がある。
ていのいい身代金だ。
聞くところによると、離婚して駄目になるのは男の方が圧倒的に多いらしい。
そう聞くと、自分だけじゃないとホッとする。
タクシーを運転し、帰って酒を飲んで寝る。
それだけの生活だ。

その夜は調子がよく、あと少しで帰ろうと思っていた。
繁華街に入ると、ガラの悪いところは回送にして通り抜けた。
どうせ近距離の客か、タチの悪い酔っ払いしかいない。
売り上げが足りなければまだしも、調子のいい時にわざわざ寄ることもない。
少し行くと、派手な看板がなくなり、灯りの落ち着くエリアになる。
前の方で女が手を上げている。
女の顔が見えて通り過ぎようかと思ったがとどまった。
ドアを開ける。
女と、続いて、どこにいたのか若い女も乗り込んできた。
行き先を聞いて出発する。
信号待ちで、2人が話し込んでいる隙にそっと運転者証を裏返した。

2人とも髪型を変え、濃いめの化粧をしているが間違いない。
別れた妻と娘だ。
俺を騙し、俺を裏切った妻と娘。
あの朝、仕事から帰ると、金目のものは一切合切なくなっていた。
預金通帳も、カードも。
実印や保険証書まで見事にない。
そして、妻と大学に入ったばかりの娘も消えてしまった。
警察に相談はしたが、事件性はないとのことで、捜索願いだけ受理された。
しばらくして、離婚届が送られてきた。

娘の方が携帯で話している間に、目的地のマンションについた。
妻の方がカバンの中をごそごそやり出した。
「あら、嫌だ。さっきのお店にお財布を忘れてきちゃったみたい。運転手さん、部屋からお金持ってくるから待っててね」
そして娘には、
「あなたは、ここで待ってて」
そして、しばらくして、娘が「母の様子を見てくる」と降りていった。
娘がマンションに入るのを確認して、俺も車を降りた。

このマンションでは、以前も別の客に逃げられたことがあった。
高級そうな雰囲気に反して、オートロックではなく、エントランスからそのまま裏の駐車場に抜けられるのだ。
走って駐車場に出ると、裏通りに一台のRV車が止まっており、2人が乗り込むところだった。
車のナンバーを控えて、発進した車を見送った。

休憩室で同僚が話している。
「最近、あの乗り逃げの親娘、見ないね」
「ああ、あんな悪い奴には天罰が下ったんじゃないの」
「もしかしたら、もう捕まったのかもね」
また別のグループから声が聞こえる。
「おい、知ってるか。あそこのホストクラブの店長、亡くなったらしいぞ。昨日、客から聞いたんだ」
「俺も聞いたよ。何でも、自分のRV車の中で、女2人と心中したらしい、一酸化炭素中毒さ」

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