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『ひ、み、つ』 # 2000字のホラー

「お母さん、帰ってくるよね」
小学校に入ったばかりの息子が尋ねてくる。
その頭を撫でる。
「ああ、帰ってくるよ。もうすぐな」
息子は、友達を見つけたのか、子供たちの集団の方に駆けていった。
日曜日の朝の公園。
家族連れが多い中で、自分はポツンとひとりだった。
他の家族は、子供だけでなく、親どうしも知り合いらしい。
笑顔で挨拶しあっている。
元々、町内の行事にはほとんど顔を出していない。
息子の学校の行事でも、必要以上に他の親と関わることはなかった。
もちろん、息子が可愛いことに変わりはない。
ただ、人付き合いが面倒なだけだった。
息子は、子供たちに混じって、滑り台を何度も滑っている。

息子と2人きりになるのは久しぶりだった。
こんな気持ちになる公園なんかに来ないで、遠くに出かけてもよかったのだが、あいにく、車は妻が使っていた。
一昨日の夜、息子が眠るのを待って出かけたきりだ。
朝になってから、息子はぐずった。
「お母さんはね、旅行に行ってるんだ」
「帰ってくるよね」
その時から、何度も尋ねてくる。
「帰ってくるよ」
それは、自分にも言い聞かせているようだった。
もちろん、このまま帰ってこない可能性もゼロではなかった。
しかし、それは考えたくなかった。
ひとりで乗り切れるかどうか自信はなかった。
息子が息を弾ませて戻ってきた。
時計を見る。
「そうだ、ハンバーガー、食べに行こうか」
「うん、行く行く」

息子はハンバーガーを食べ終えて、ポテトをつまんでいる。
ここも、家族連れで混雑している。
階段下の2人用の席に潜り込んだ形だ。
楽しそうな息子の顔を見て思った。
これからは、こんなこともできるだけやっていこう。
それが、罪滅ぼしにもなるに違いない。
少し冷めかけたコーヒーを口に運ぶ。
息子はおまけのおもちゃの袋を開けようとしている。
「ほら、かしてごらん」
受け取って開けようとするが、意外にビニール袋は頑丈だった。
力を入れているのを息子に悟られないように、テーブルの下で開けた。
息子がよく見ているアニメに出てくる乗り物だった。
「お母さん、旅行に行ってるんだよね」
「そうだよ」
テーブルの上で、乗り物を動かしながら息子は話した。
「あのね、さっき公園で聞いたんだけどね、ユキちゃんとこのママも旅行に行ってるんだって」
小学校に入るときに、ママをお母さんになおさせた。
しかし、友達の母親のことはまだママというようだ。
「そうだろう。うちだけじゃないんだよ。みんなのお母さんも、旅行に行くんだよ」
息子の口の周りを紙ナプキンで拭いてやる。

声をかけてきたのは彼女の方だった。
駅の近くの居酒屋で同僚と飲んでいた。
彼は、ふたつほど先の駅だったが、
「俺も降りるから、もう少し飲もう」
と誘ってきたのだ。
定年で退職する上司の送別会の帰りだった。
カウンターで並んで飲んでいると、後ろから肩を叩かれた。
振り向くと、スーツ姿の女性が立っている。
見覚えはない。
彼女は息子の名前を言った。
「お父さんですよね」
こんなところで、何かのセールスかと思い警戒した。
「同じクラスのユキの母です。確か、参観日に来られてましたよね」
彼女の友人も含めて4人で、続けて飲んだ。
連絡先を交換しようと言い出したのは、どちらからだったか。
その夜は、帰ってから、その日のことを妻に話した。
「ユキっていう子の母親と駅前の居酒屋で一緒になったよ」
それから間も無く、妻には言わずに会うようになった。

不倫は物理的に近い距離の相手の方がバレにくいと聞いたことがある。
2つの家庭の距離は、中途半端だったのだろうか。
その日は、休日出勤で家を出た。
嘘ではなかった。
午前中に仕事を片付けて、午後から会っていた。
ホテルの駐車場で、車に乗ろうとして気がついた。
妻が立っている。
妻の指示で、助手席に彼女、後部座席に妻が乗り込んだ。
短い話し合いの後、彼女とは別れることになった。
お互いに家庭を壊したくはない。
「あなたのご主人は知らないのよね」
「ええ」
「他には」
「もちろん、誰も知りません」

その後、妻は何事もなかったかのように接してきた。
笑顔であったところでは、同じように笑顔だった。
体を寄せ合うペースも変わらなかった。
「ユキちゃんのお母さんのことだけどね」
妻が携帯を見て言った。
「みんなで探そうって、集まってるらしいの」
「大丈夫かな」
「今から行ってくるね」
それが一昨日の夜のこと。
妻からは、それから一切連絡はない。

スマートホンの通知オン。
ー全部無事に終わりました。車は買い替えましょうね
息子が察して覗き込んでくる。
「お母さん、今夜帰ってくるぞ」
夕食を作って待っていると、玄関のドアが勢いよく開いた。
「ただいまあ」
息子は妻に抱きついている。
「はい、お土産よ」
「やった、やった」
妻からは微かに土の匂いがした。
そういえば、一昨日出かける時に言っていたのだ。
「スコップ借りるね」
息子に聞こえるが我慢できない。
「どこに埋めた」
「それはね、ひ、み、つ」

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