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『コスモス』

今年も庭のコスモスが花を咲かせている。
20坪ほどある庭の片隅に、身を寄せ合うように淡い色の花が揺れている。
この家を買う時に、駐車場とは別に、狭くても庭のある家にしようと妻と話し合った。
郊外の開発されたばかりの分譲地に、それでも無理してローンを組んだ。
妻が懸命にやりくりする給料も、世間の景気の拡大とともに順調に上がり続けた。
肩書きも、ひとつふたつと上がり、部下も増えた。

その間に、子供も立て続けに生まれた。
2人とも女の子だった。
子供が庭で走り回るようになると、多少の不便をおしてもこの家にしてよかったと、妻と顔を見合わせる。
いい思い出ではあるが、現実には、そんな休日は数少なかった。
仕事はいつ終わるともしれないくらいに山積みの日々が続いた。

娘が2人とも中学生になった頃に、世間は変わった。
まず、新規採用が見合わされ、続いて合理化という名の人減らしが始まった。
決めるときに、妻に相談することも考えたが、ひとりで決断した。
何とかなるとたかを括っていたのは嘘ではない。
探せば、口はいくらでもあるだろう。
しかし、この景気の流れを例外とする企業などある訳もない。
もちろん、肩書きや収入にこだわらなければ、あるにはあった。
しかし、一旦そんな仕事についてしまえば、2度と這い上がれない。
それは、路上に暮らすのに等しい。
そう思っていた。
今なら、それはとんでもない考え違いであり、思い上がりであることは理解できる。

「見てよ、このスーツまだ入るわ」
寝室のクローゼットの前で妻はくるりと一周した。
あなたを急かせるつもりはないけれども、ローンもあるからね。
そう言って、妻は仕事を決めてきた。
このご時世に、こちらの仕事も決まらないのにと疑ったが、子供ができるまで勤めていた金融関係の会社らしい。
そこも景気は良くないが、正社員を減らしてパート勤務に切り替えることを検討している過程で、リストから元社員の妻の名前が上がってきたらしい。
「パートだけど、時給はいいし、いずれ正社員にもしてもらえるかもしれないのよ」

妻の初出勤の日から、家事を担当することになった。
と言っても、朝食はそれぞれが自分で、パンを焼くなり、シリアルで済ませるなりしてくれる。
夕食は、妻が帰ってから用意してくれるが、遅くなる時には、長女が代わりをしてくれる。
掃除と、妻に頼まれた買い物、簡単な洗濯。
暇な時間を見つけて、ハローワークに出かける。
良かったことは、2人の娘と話す機会が増えたことだ。
女の子は中学生くらいから父親を毛嫌いすると聞いていたが、それよりも、家にいる父親への憐れみのようなものがまさったのかもしれない。

半年が過ぎて、失業手当もそろそろ打ち切られるあたりから、妻の残業が多くなった。
「少しずつ忙しくなってきてるの」
食事を外で済ませた妻は、着替えるのももどかしそうにベッドに倒れ込んだ。
夕食の用意は妻から連絡を受けた長女がすることが多くなった。
時々、次女も手伝っている。
そして、3人で食卓を囲む。
「お母さん、今日も食べて帰るからって」
携帯を見ながら長女が言った。

ある日、いつもよりも妻の帰りが遅くなった。
駅まで迎えに行こうと電話をしたがつながらなかった。
長女に頼んでメールをしてもらっても返信はない。
窓の外に車の止まる音がした。
2階の寝室の窓をそっと開けた。
タクシーではなかった。
白いセダンだ。
窓をそっと開けたのは、何かを予感していたのだろうか。
助手席から一旦おりた妻は、運転席の男に呼び止められて振り向くと、上半身を車の中に突っ込んだ。
顔は見えないが、妻の背中から腰、尻にかけて男の手が這った。
窓を閉めようとして、ふと見ると、隣の部屋の窓からも、2つの頭がのぞいていた。
垂れた髪の毛で、その表情は読み取れなかった。

程なくして、実家に用があり、ひとりで出かけた。
日曜日で妻は仕事が無く、2人の娘も家にいた。
思っていたよりも時間がかかり、帰宅した時には暗くなっていた。
妻の姿はなく、2人の娘が夕食を前にして待っていた。
「お母さんは出かけたよ。仕事で呼び出しだって」
2人の娘が声をそろえて言う、その顔を見て息をのんだ。
2人とも真っ赤な口紅をしていた。
「やめなさい」
思わず声を荒げてしまった。
それは口紅のためだけではない。
長女の首にはネックレス、次女の薬指には指輪、どちらも見覚えのあるものだった。
翌朝、娘たちを学校に送り出してから気がついた。
庭の片隅に、コスモスが何本も植えられている。
そして、そこだけ土の色が変わっていた。
「ああ、もうそんな季節か」
何かの思いを打ち消すように呟いた。

3年後、失踪した妻との離婚が認められた。

コスモスは変わらず咲き続けている。
今では、娘たちも独立して、孫もいる。
ひとりなら、この家を処分してもう少し便利なところに越せばと言ってくれる人もいる。
しかし、守り続けなければならないのだ。
この家とあのコスモス、そして娘たちを。

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