『七夕の願いごと』
窓辺のテーブルでコーヒーを飲んでいる。
夫を送り出した後、毎朝ここにきてコーヒーを飲むのが日課になっている。
その夫も、この夏が終わる頃には定年だ。
そうなれば、多分2人で来たいと言いだすだろう。
でも、私はどうなのか。
この1人の時間を、夫との時間にできるだろうか。
昨夜遅くに降り出した雨がまだ続いている。
今年は例年になく早めの梅雨明けを気象庁は告げていた。
戻り梅雨。
それとも、新しく発生した台風の影響なのだろうか。
仕事を辞めた今は、以前ほど天気予報に注意しなくなった。
以前は、細かくチェックしたものだ。
雨が降れば、屋外での行事は変更しなくてはならない。
晴れたからといって、油断はできない。
子供たちが熱中症にならないように気温の変化にも気をつけた。
水筒を持たせてくださいと言っても、何も持たせない親もいる。
レジの横に小さな笹が飾られている。
今日は七夕だ。
あいにくの雨模様。
天の川が見えなくても、織姫と彦星は出会えるのだったか。
そもそも、一年に一度しか会えないというのは、罰ゲームのようだ。
いっそ、もう会えない方が、2人のためにはよかったのではないか。
むしろ、出会うべきではなかったかもしれない2人。
トートバッグから封筒を取り出した。
昨日届いたまま、まだ封を切れずにいた封筒。
何となく、一人で読みたかった。
いや、自分の家で読むのが怖かったのかもしれない。
何の変哲もない、白い長封筒。
文字を見ても思い出せないが、差出人の名前は忘れられない。
その保育園に勤めるようになって、10年ほど経った頃のこと。
保母の仕事も10年にもなればベテランの部類に入ってくる。
大体のことは経験し、子供の性格もわかってくる。
大人しい子、話し好きな子、喧嘩っ早い子、いろいろだ。
普段は大人しくても、急に暴力を振るう子もいる。
子供の数だけ性格もあるが、対応力は身についてくる。
その年にも、7月7日が近づくと、大きな笹が運び込まれた。
七夕の行事として、どこにもあることだ。
クラスごとに、飾り付けをして、一人一人願い事を書いてぶら下げる。
年長クラスは、自分で書いて、先生に見せる。
私も、教室の前の机にもたれて、一人一人の願い事を見せてもらっていた。
その時には、全員の短冊を見たと思っていた。
願い事をぶら下げた笹は、教室の前の中庭に面した柱にくくり付けられた。
園長に呼び出されたのは、次の日の昼休みだった。
突き返すようにして差し出されたのは、2枚の短冊。
一枚には、
「ころしたい」と書かれている。
名前はクラスの男の子。
もう一枚には、
「しにたい」と書かれている。
そして同じく女の子の名前が。
園長の指示通りに、2人を呼び出して、書き直しをさせた。
何と書かせたのかは覚えていない。
ただ、男の子が最初に泣き出して、女の子も泣き出した。
私も我慢できなかった。
何故だろう。
涙した理由は、少なくとも、3人それぞれのはずだ。
短冊は何度取り替えても、涙で濡れてしまった。
2人の最初に書いた短冊は、なぜか捨てる気になれなかった。
今でもトートバックの底に眠っている。
2人は家庭環境がややこしい子だった。
今、ややこしいなどという言葉を現場で使うことは許されないだろうが。
男の子も女の子も、両親がいなかった。
それぞれ、祖母と叔父夫婦に育てられていた。
その後、2人は大きな問題もなく卒園していったが、私の頭から離れることはなかった。
そのような記事を新聞で見かけたり、ニュースで聞くたびにヒヤッとした。
未成年の間は名前が出ないが、地域が離れていると、多分大丈夫だと、自分に言い聞かせた。
彼らが成人する歳になるとホッとしたものだ。
これで、何かあっても名前が出る。
その2人から昨日、手紙が届いた。
もうあの頃の私の年齢も過ぎている2人から。
「ころしたい」「しにたい」
幼い文字が頭の中で重なった。
爪の先で丁寧に封を開ける。
何かが壊れるのを恐れるかのように。
白い便箋には、丁寧な文字が、ブルーブラックのインクで綴られている。
内容からして、書いているのは彼のほうだろう。
こんな文字を書くようになったのか。
僕たちは結婚しました。
冒頭に、そう書かれている。
何度も読み直した。
そして、これまでのことも綴られている。
2人は卒園後も、偶然も重なり歩みを共にしていた。
2人して補導されるようなことも何度かあったようだ。
新聞に載るほどのことではなかったのだろう。
2人とも中学を出て働き出したが、彼女の方は資格をとって大学も卒業したらしい。
今は小さな建築会社を経営していると書いている。
経営は順調ではないが、頑張りますと。
そして、最後の数行は、彼女の筆跡だろう。
秋には子供も生まれる予定ですと。
便箋を畳んで封筒にいれる。
少し冷めてしまったコーヒー。
トートバッグの短冊はどうしようか。
もう少し持っていようと思った。
叶わない願い事も大切なことがある。
雨は、夜には上がるかもしれない。
西の方が少し明るくなっている。
そうだ、便箋と封筒を買って帰らなくては。
夫がもし、この店に一緒に来たいと言ったら、こう返してやろう。
「願い事なんか叶わなくても、人は幸せになれるのよ」
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