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『天下人の自由時間』を読む

本日は、荒井魏『天下人の自由時間』の読書感想文です。

天下人 信長・秀吉・家康の素顔を探る本

本書は2003年の発売で、うっすら記憶が残っているので、今回がおそらく再読です。作者の荒井魏氏は、ジャーナリスト出身の歴史作家で『司馬遼太郎を歩く』などの著作があります。

『戦国の三傑』が、織田信長(1534-1582)・豊臣秀吉(1536-1598)・徳川家康(1542-1616)であることに異論はないでしょう。

織田がつき 羽柴がこねし  天下餅  座りしままに食うは徳川

という狂歌は有名ですし、障壁をどのように排除して天下取りを実現したかの経緯を、その性格や手法の違いからホトトギスに喩えて表現した

鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス
鳴かぬなら 鳴かしてみせよう ホトトギス
鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス

もよく知られていて、それぞれの人物のイメージ形成に一役買っています。私も、子供の頃に刷り込まれた『革新的だが短気で残虐な信長、庶民的で創意工夫に長けた秀吉、策略家で粘り強い家康』とイメージがありました。

その後、関連する書籍を読んで学ぶたびに、この寸評は一面を捉えてはいるものの、真の人間像とは違うことも知るようになってきました。本書は自由時間をキーワードに、英傑たちの人間味に迫る面白い切り口の内容なので、読み物として非常に優れていて、歴史好きには楽しい本でしょう。

偉人の人物像を歪んで理解している

あとがきにもあるように、偉業を成し遂げた人物の評価は、表の歴史的事実から判断・評価・想像されがちです。

信長は中世から近世への扉を開いた革命児、秀吉はその事情を受け継ぎ天下統一を果たした調整型人間、家康は信長、秀吉の遺産をちゃっかり自分のものとし、江戸三百年の礎を築いた忍従型で、ややもすれば「狸親父」的な評価も受けてきた。
それらの評価は、いずれも歴史の表舞台である戦いや、それに伴う政治的駆け引き、策謀などのイメージに加え、中世から近世の歴史を発展的に捕らえた時の三人の役割から生まれている。ーP246

すなわち、人物像は「こういうことをした人なのだから、こういう人間に違いない」という先入観でレッテルを貼られている可能性がある、ということです。これは現代の人物評価にも当てはまります。幼少期のエピソードが後の業績にこじつけされるのは常套手段だったりします。

信長・秀吉・家康のように、数多くの記録が残り、研究され尽くされている感のある人物ですらイメージ先行で理解されていて、実像はまだまだ謎が多いということかと思います。ましてや、彼らの陰で葬り去られた俊才たちは、実像以下に貶められた歴史的評価になっている可能性があります。

また、戦国時代の時代背景について私たちが漠然と抱いているイメージが邪魔をして、人物像が実体以上に誇張、増幅されていることを踏まえておく必要があると感じます。


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