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支えるとはどういうことなのか

本日夜から横浜の自宅へ帰省します。約二ヵ月振り、待望の瞬間です。この記事は、我が家へ向けて走る高速バスの車内でスマホから書いています。本日のテーマは、『支えるとはどういうことなのか」という思いつきを掘り下げてみます。

息子が書いた感謝のことば

息子は今年の3月に小学校を卒業します。離れて暮らし始めたここ半年ほどは、息子が育つ様子を身近で見守ってやれていませんが、短いような長いような6年間でした。息子の通う学校では、卒業式の前に下級生たちによる「卒業生を送る会」が開かれるらしく、そこで、卒業生はひとりひとり色紙にことばを綴ることになっているようです。

息子は、「今までささえてくれてありがとう」と書いたと妻から聞きました。確かに息子の学校生活は、周囲の理解や”ささえ”がなければ、成立しませんでした。月並みとはいえ、なかなか素敵なことばを書いたものだと感心し、嬉しく思いました。

ここでの「ささえる」は想像するに「支える」の意味だろうと思いますが、平仮名で書いていることに特別な意味があるのかもしれません。

「支える」は軽いことばではない

さて、この「支える」ということばは、日常的に頻度高く使われることばですが、私の子どもの頃は、もう少し重厚感のあるニュアンスを感じていました。「支え合う」とか「サポート」とか、同質の意味を示すことばと比べて、「支える」は、一本芯の通った重み、一肌脱ぐ、汗を流す、といった実質的な義務感を背負う覚悟が感じられることばであり、強い意志がないと吐けないことばのような気がしています。

私は文字通り、息子を「支える」存在でなければいけません。その責任と自覚を忘れたことはありません。妻に言わせれば、言動と行動が伴っていないという評価になりそうですが、もうずっと以前から、ここだけは逃げない覚悟を決めています。

支えるために知らねばならないこと

もっとも、適切な支え方を知らないと、一人相撲になってしまいます。また、良かれと思って支え続けた結果が逆効果だったり、支える側が途中で折れてしまって、共倒れになってしまっては、幸福な結末は訪れません。気持ちだけでは駄目で、持久戦を持ち堪えられるだけの実弾も確保していかないといけません。

実際問題として、自分自身は誠心誠意誰かを、何かを支えているつもりでも、その善意にフリーライドされていたり、相手はありがた迷惑だったりすることが少なくありません。また、自覚なく自分も周囲に恩を仇で返している可能性だってあります。誰かを、何かを支える、というのは、腕力も気力も根気もいる行為です。中途半端な気持ちでは、うまくいきません。

誰かを、何かを支え続ける為には、自分自身に余力があることが絶対条件でしょう。時には我慢することも、犠牲になることも厭わず、振る舞わなければなりません。ビジネスの世界では、"支援""サポート"ということばが至る所で踊っていますが、魂がこもっていない、上っ面だけの場合、体裁を整えるための方便で言っているなあ、と感じることも少なくありません。「支える」ということばを使うことの重みを、もう一度息子の書いたことばから、考え直したいな、と思った夜でした。

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