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【バー小説①】雨の夜に煌めくブルームーン

男は午後4時をわずかに過ぎていることを確認して、目の前の重い扉を開けた。

「いらっしゃいませ」

「しばらくです。いいですか?」

「おや、お久しぶりです!お帰りなさい。さあどうぞこちらへ」

白いシャツに緋色の蝶ネクタイが映えるオーナーバーテンダーから歓迎を受けた。店は開店したばかりで、先客はいないようだ。男はコートを脱いで、鞄と一緒にバーテンダーに預け、カウンターの一番左端の席にゆっくりと腰を下ろし、微かに香る温かいおしぼりを受け取った。

「お疲れ様です。今回は出張で日本へ?」

「ええ。今週一杯こちらです。」

「そうですか。わざわざありがとうこざいます。何に致しましょうか?」

「ジントニックを。」

「かしこまりました。」

約1年前アメリカ支社に転勤するまで、男はこのバーに週1回ペースで通っていた。開店して3年ちょっとの銀座では比較的新しい店だが、バー激戦区の中にあって、本格的なオーセンティックバーとして評価も上々らしい。

男は、この店の格調高くも柔らかい空気が流れる居心地の良さとオーナーバーテンダーの確かな技術で丁寧に作られるカクテルが気に入っていた。バックバーに並ぶ酒の種類や、ちょっとした調度品、座席の配置などは男の通っていた頃とは少し変わった感じはしたが、懐かしい空気に心が高揚するのを感じていた

◆◆◆◆◆

声を掛けてきたのは女の方だった。その日の午後、東京本社のエレベーターで、会議を終えた男は偶然その女と一緒になったのだ。

「〇さん、✖✖部の△です。一時帰国するって言われてましたけど、今週だったんですね。どうですか、久々の日本は?」

男はアメリカ支社では最若手で、本業の営業・マーケティングに加えて「アドミ」と呼ばれるバックオフィス系の業務も兼務していたので、東京本社の幾つかの部署とは頻繁にやり取りがあった。その女は仕事のやり取りがある部署の担当者の一人で、男より年齢は10歳以上若いものの、依頼した事や確認したい事項へのレスポンスが早く、応対も的確で、男はその女の仕事振りが気に入っていた。やり取りのメールにさり気なく添えられてくる言葉や反応にもセンスが感じられ、数回顔を合わせた程度の面識しかなかったが、好感を持っていた相手だった。突然声を掛けられて驚いたが、男は女の声のトーンを心地良いと感じた。目に飛び込んできた自然な笑顔と凛とした佇まいも男には好ましく感じられた。

「やあ△さん、いつもお世話になってます(笑)日本は飯が美味いですね。一昨日着いたばかりなんで、まだ時差ボケが抜けなくて、昼間の会議はしんどいんですよ(笑)」

男は、焦りを悟られないよう、出来る限り自然に無難な回答を捻り出した。上出来だと思った。

「やっぱりそうですよね(笑)今回はいつまでおられるんですか?」

「今週一杯です。土曜日の便で帰ります。」

エレベーターには、PCと資料を手にした女とTUMIのビジネスバッグを肩にかけた男の二人しかいない。会話は続いた。

「慌ただしいスケジュールなんですねえ…。〇さん、お忙しいと思いますけど、日本におられる間にお時間作れませんか? 先日言われていた件、覚えておられますか? ちょっと期待してるんですけど(笑)」

男は女からの突然の大胆な申し出に少し驚いたが、すぐについ先日の女とのやり取りを思い出した。ローカル社員への伝達ミスから厄介な問題になりかかっていたのだが、男が困って相談したその問題を、女は迅速な対応で見事未然に解決してくれた。男は問題が一段落した時に、「今回の件では本当に助かりました。お礼に日本出張の際にでも一杯奢ります!」というメールを女に送っていたのだ。

「その節は本当にありがとうございました。今回の日本出張は急遽決まったので、事前に連絡出来てなくてすみませんでした。一杯やる件は勿論覚えています。実は今日の夜だけ予定が空いてます。これから外出して打ち合わせがあるのですが、その後はフリーです。久々に銀座の馴染みのバーに顔を出そうと思っていたところです。急な話で申し訳ないですが、よろしければご一緒しますか?」

男は思い切って切り出した。これまで苦しんでいた時差ボケは一瞬の内にすっかり吹き飛び、うっすらと脇汗が滲むのを感じた。

「是非お願いします! 〇さんはバーに詳しいって社内でも評判ですものね。どこに連れて行って下さるんですか?」

女はこれまでの声のトーンよりも一段上げて、即答した。

「ここです。4時からやっている店なので、僕は一足先に飲らせてもらってると思うけど(笑)」

男は、名刺入れからブルーのショップカードを抜き出し、女に手渡した。

「わかりました! 仕事を出来るだけ早く切り上げて伺いますね! 銀座には4時からやってるバーがあるんですね! どんな店なんだろう…楽しみ」

女はひとしきりそのショップカードを眺めた後、男に方に顔を向けて微笑んだ。

「仕事忙しいでしょうから、遅れても大丈夫ですよ。着いた時に僕が先に酔っぱらっていたら申し訳ないけど(笑)」

女は目線を落として微笑み、エレベーターが目的階に着いたことを確認すると、「では後ほど」と軽く会釈をして出て行った。男は軽く右手を上げ、鞄を右の肩から左の肩へとかけ替えた。

◆◆◆◆

男は、オーナーバーテンダーによって丁寧に造り込まれたジントニックを受け取り、一口すすった。

「あぁ、おいしい! やっぱり違いますね。」

男はお世辞抜きの心の底からの感想を述べた。アメリカでは日本のオーセンティックバーで頂くようなジントニックにはまずお目にかかれない。

「ありがとうございます。むこうでもバーには行かれているのですか?」

「いやぁ、めったに… 普段は車通勤なんで。出張した時に泊まるホテルのバーで一杯やるくらいですよ。といっても、テレビモニターがあるようなバーばっかりで、本格的なカクテルを飲む機会はないんですよ。」

「じゃあ、普段は何を?」

「ビールからはじめてワインをボトルでしっぽり、というパターンが多いかな。カリフォルニアワインの銘柄にはちょっと詳しくなりましたよ。あぁ、そう言えば向こうでは『ジャックダニエル!』ってオーダーしても通じないんです。ご存知でした?」

ジャックダニエルは、世界的な知名度があるアメリカンウイスキーだ。アメリカンウイスキーといえばバーボンが有名だが、テネシー州の蒸留所で造られるジャックダニエルはバーボンではない。バーボンはとうもろこしを原産とし、ケンタッキー州バーボン谷で細かく定められた製法を用いて造られるウイスキーだけが使える称号である。

「えっ、そうなんですか?」

「僕の発音の問題かもしれないんだけど、何回頼んでもバーテンダーからは『はぁ?』って返されちゃう。ある時もそんなやり取りをやってたら、隣に座っていた若いにいちゃんがバーテンダーに『彼はJack Danielsって言ってるんだよ』って助太刀してくれてね。そうしたら、そのバーテンダー『Oh! Jack Daniels.. OK!』って一発で理解しちゃった。その時は、『発音大して変わんないだろ!』って思ったけどね。」

「(笑)」

「そしたら、そのにいちゃんが『次からジャックダニエルを頼みたい時は、JD on the Rocks!って言え。そしたらアメリカ中どこでも通じるから』って教えてくれた。」

「へぇ、それは初めて聞きましたね。」

「その後に何回か試したけど、『ジャックダニエル』だとことごとく駄目。『JD on the Rocks!』だと100%通じた。そいつの言う通りだった。」

「それは、おもしろい話ですね。」

バーで、カウンターを挟んで会話を楽しむのは久しぶりだった。英語がネイティブ並に流暢に話せないことがコンプレックスの男は「日本語でのやり取りはやっぱりいいなあ」と思った。

◆◆◆◆

お店のバーテンダーたちとやり取りをしている間に、人気店であるそのバーのカウンターは常連客たちで埋まり始めた。「今日は待ち合わせなんで」と伝えていたので、男の右隣の席は確保しておいてくれた。1月の陽は短い。入店した時にはまだ微かに明るさが残っていた窓の外にも夜の帷がすっかり広がっている。微かに雨音も聞こえる。

「雨が降り始めて来たみたいです… お連れ様は何時ごろお見えに?」

「さっき会社を出たってメールが来たからもうすぐだと思うけど…。このあたり同じようなビルが多いんで、迷わないといいんだけど…」

腕時計に目をやり、時間を確認していたその時、静かに扉が開いた。「いらっしゃいませ」バーテンダーたちの声がはもった。男が身体を捩じって扉の方に振り向くと、女が不安そうな様子で、出迎えたバーテンダーに何かを聞こうとしているように見えた。男が軽く右手を上げて合図をすると、女は安心したように笑顔を見せ、手に持っていた薄紅色の傘を折り畳み、来ていたシルバーグレーのコートとワインレッドのマフラーをとりはじめた。

オーナーバーテンダーが、男に目配せをした。どうやら待ち人が女だとは思っていなかったようだ。

「お待たせしてごめんなさい。こういうお店慣れてないんで、扉開けた瞬間物凄い緊張しましたよ。(笑)さすが、いいお店をご存知ですね!」

男の隣に座った女は、おしぼりを受け取りながら、一気にそう言った。女の横顔は、薄暗い照明のせいか、昼間エレベーターで会った時よりも少し大人っぽく見えた。カウンターの客たちがさりげなく女を見ている。

「銀座のバーで飲むなんて、僕には怖れ多いんだけどね。仕事お疲れ様でした。雨は降ってる?」

「はい。会社を出た時は大丈夫だったんですけど、銀座駅に着いて地上に出たら降ってましたね。あぁ寒かった。」

女の髪には所々雨の水滴が光っている。照明に映えて美しい。

「僕は極寒地域から戻って来たんで、日本はむしろ温かいなあって思ってるよ。お酒は強いの?」
「まあそこそこは…。でも、私の友達に普段バーで飲んでる人なんていないんで何を選んでいいのかよくわかりません。お任せしてもいいですか?」

男は軽くうなずいた。好ましい反応だ。いきなり通好みのカクテルやウイスキーをオーダーし始めたら興醒めするところだ。少し考えてから、バーテンダーを呼んだ。

「彼女にブルームーンを」
「かしこまりました」

バーテンダーは微笑しながら大きく頷いて、冷凍庫からうっすらと霜のついたジンのボトルを引き出し、バックバーからは静かに紫色の液体が入ったボトルを引き抜きた。

「ブルームーン… 素敵な名前。何が出て来るのか楽しみです。」

男は、嫌味にはならないように注意を払いながら、ゆっくりと控え目にこのカクテルを選んだ理由を、目の前に並べられた酒瓶を興味津々に眺める女に説明しはじめた。

「ジンがベースのアメリカ生まれと言われているクラシックカクテルです。雨が降ると飲みたくなるんです。アルコール的にはちょっときついけど。」

女はちょっと不安そうな顔をしたが、オーナーバーテンダーのシェイクが始まったので、興味津々な様子で目を向けた。シェイカーの中でリズミカルに氷が砕ける音が響き渡った。

「お待たせしました。ブルームーンです」

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「キレイな色のカクテルですね! キラキラしていて綺麗。」

「パルフェ・タムールというすみれ色のリキュールを使うので紫色になる。シェイクで砕かれた氷片が表面にうっすら浮かんでいて幻想的でしょ。」

「いただきます。… おいしい! 最初は甘いって感じたけど、後はすっきりしてる… うまく表現できないけど…アメリカっぽい!」

「ありがとうございます」

オーナーバーテンダーが笑顔で頭を下げた。男も微笑んだ。この日初めて一緒にお酒を飲む女から期待通りのリアクションが貰えたことに満足だった。

「アメリカっぽいっていう表現いいね。満足してもらえたかな? アルコール度数の高いカクテルだから、一気には飲まない方がいいよ」

「はい。私、アメリカで働くことに憧れてます。いつか行きたいなと思って英語も勉強してます。今夜はアメリカのお話、たっぷり聞かせて下さいね」

「そうだなあ、何から話すかなあ…」

空気が和み、二人の距離がぐっと縮んだ気がした。久々にひとり酒を楽しむつもりが‥ 今夜はいい夜になりそうだ。男は益々リラックスしていくのを感じた。

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