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一人称に「僕」を使う人が主流の時代

本日は、私が使うことを苦手としている一人称、「僕」について、独断を吐いてみたいと思います。

私は「僕」を使いこなせない

英語の一人称表記が「I」に限定されるのに対し、日本語の一人称表記は様々です。社会に出たらTPOに応じて使い分けすべきと教えられました。普段、自分を示す一人称にどういったことばを充てているかはキャラクター形成上重要だと思います。

私が普段使いする一人称は、noteや公の場面では「私(ワタシ)」、日常生活での身近な人たちとの会話では「俺(オレ)」です。変遷を経て今の形に落ち着いた感じです。

気付いたのは「僕(ぼく、ボク)」を使うのが苦手だということです。過去に使いこなそうと努力していた頃もありましたし、先輩格や目上の人との会話の中で使う機会もゼロではありません。ただ、私個人が普段使いする一人称に「僕」はどうもしっくりこないと思っています。

あえて理屈を言うと、仕事の場や公共の場では、男を想起させる「僕」よりも中立的・匿名的な響きの「私」の方がいいかな、という嗜好です。

世の中「僕」が標準の人が増えていると感じる

対照的にメディアでは、一人称に「僕」を標準的に使う人が多い印象を持ちます。若者世代は顕著ですし、社会的に成功したポジションにいる著名人にも「僕」を自然体で嫌味なく使っているタイプが少なくないと感じます。

私の若い頃の記憶では、一人称に「僕」を使う人を糾弾する人や論調が少なくありませんでした。批判する根拠は空虚なわりには結構辛辣で、

● いい年をした大人の男がいつまでも「僕」を使うのは青臭い
●  公的な場で「僕」を使う奴は信用できない
●  「僕」の氾濫は、間違った学校教育の悪しき影響だ

といった類いのものでした。私はその影響もあって、社会人になってからは「僕」は使わない方がいいんだ、という感覚を持っていました。

一方で、学術分野や知識労働系の分野で頑なに「僕」を使う人が結構いました。当時「僕」に固執する人は、

● 反権力・反体制。伝統や権威の押し付けは信用しない。
● 頑迷な大人になるなら、若々しく柔軟で未成熟な子供のままで結構。
● マッチョや高圧的な態度は大嫌い。自由と平等、平和を愛す。 

というちょっとリベラルな気質を持つ人だ、という印象がありました。

時代は流れ、今ではTPOに関係なく「僕」を使う人が違和感なく、むしろ好意的に受け容れられ、チャーミングにも見えるようになっています。人間関係でも、「僕」を使う人の方が距離を縮める垣根が低く、親しみやすそうな印象を与えます。

ここ20年位は、男女平等がスタンダードなのに、「私」より男をイメージさせる「僕」をメインに使う人が、時代の空気に合っていて、主役の座に座っていると感じます。「俺の…」という名称の店がヒットしたのも「ボクたち…」が完全に市民権を得たために、逆に押し出し強めの語感が新鮮に響いたからではないか? とすら感じます。

以下は「僕」ユーザーについての考察です。

①「僕」が標準装備されている人

「僕」を恒常的に使い、キャラクターと一体化しているなあと感じる著名人に、作家の村上春樹氏とキングコングの西野亮廣氏がいます。この二人が使う「僕」には全く違和感がなく、チャーミングに「僕」を連発しています。「僕」以外の一人称を使っている所があんまり想像できません。

一人称に「僕」を持ってくる人って、誰かの脇役は似合わない人なんじゃないかと感じます。人格的には自己中心的からは対極にあるタイプでも、自分の考えや世界観を侵食されるのを極度に嫌がる印象があります。仕事や活動の分野では、確固たる信念があって、自分が中心か主体的にコントロールできる役割でないと持っている実力を十分に発揮できないタイプかもしれません。自分の運命は徹底的に自分自身でコントロールしたい、ある意味で頑固な人なのかな…という気がします。

②「僕」を時折効果的に使う人

「僕」を使わないイメージが定着しているものの、時折効果的な「僕」を使うと感じる人に、政治家の故・田中角栄氏ととんねるずの石橋貴明氏が思い浮かびます。普段使いは、角栄氏は「ワシ」、石橋氏は「オレ」のイメージです。

アクの強そうな自信家肌で豪腕、ゾーンに入った時の狂気的な臭いを持つ反面、繊細さ、神経の細やかさを隠し持っていることが透けて見える時があります。静かな理論家というよりは激しい実戦家。ごくたまに使う「僕」が剛毅さや勢いを中和して、人間的な温かみや弱さを滲ませてくる… 私はそう感じて嫌な気になりません。

同じ政治家でも、エリート感の強い故・福田 赳夫氏や故・宮沢喜一氏の使う「僕」には、逆に嫌味を感じてしまうから不思議です。

③「僕」がフィットしない人

「僕」を頻繁に使うものの、あまりフィットしていない印象を持つ著名人に、実業家の堀江貴文氏、オリエンタルラジオの中田敦彦氏がいます。本人たちは、一人称を首尾一貫して統一する必要は感じていないかもしれません。その時の気分とTPOで「僕」も使うけど、一人称が何かなんて大した問題じゃない、と考えているのではないでしょうか。

二人には、腕白坊主的な気質とエネルギーを感じますし、硬軟織り交ぜて周囲から共感を得るための巧みな技・策士の一面も持っています。時代の空気やしきたりに渋々従う寛容さと忍耐力はない。じっくり時間をかけて変えていくのは面倒臭い。自分の影響力とクオリティで腕力勝負、自分のやってることがクールで、自分の後をついてくるのが正解なんだ!、という強さを感じます。本来的には、伴走者やサポーターは不向き(≠能力がない)で、リーダー以外の立ち位置はあり得ないというタイプの人だと感じます。

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