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《感想文》「低空飛行しているおじさん」の話

本日は、愛聴しているVoicy、『荒木博行のbook cafe』の2021/9/5の放送回を聴いての感想文です。毎週日曜日は、相談カフェ形式で、リスナーからの投稿をベースに話す回になっています。

棋士、羽生善治のことばから

採り上げられた投稿は、将棋棋士の羽生善治氏(1970/9/27-)が本に書いていることばがきっかけになっています。

全然使えなかった駒が、終盤で意外な戦力になることがある

このことばについて、職場のおじさんが上機嫌になって喜んでいる様子を見た投稿者の感想は、「低空飛行の人は、最後まで低空飛行な気がします」というものでした。”駒”が会社員のメタファーとして引用されていて、なかなか辛辣な内容を含んでいます。

荒木氏の分析から

荒木氏は、羽生さんのことばには、二つの捉え方がある、と分析します。

一つは、【自分を羽生さんに投影させて考える】です。
昔は大して役に立たないと思っていたことが、後になって物凄く役に立った、意味の無いものは何もない、コネクティング・ザ・ドッツなんだ、といった教訓と受け取る姿勢。荒木さんは、「普通に」こう考えたと言います。

もう一つは、【自分を駒に見立ててものを考える】です。
自分は、自分を支配する大きなフォースに翻弄される駒であり、利用価値のある存在として再認識される希望を捨てるなという捉え方です。自分の上には使用人がいると考えてしまう価値観に、荒木さんはユニークさを感じた、といいます。

他人に「低空飛行」とレッテルを貼る危険性

放送では、気になる表現として「低空飛行の人は、最後まで低空飛行な気がします」にも言及しています。他人に対して、自分本位の勝手なレッテルを貼って評価する態度から逃れることは難しいのが実態です。

荒木氏は、現在の自分を過去の自分で評価してしまう問題点を指摘しています。過去の何者でもなかった自分の視点を覚えていて、現在の自分の境遇が自己肯定感を高める場合も、卑下させる場合もあります。その判断基準が、自分の属する組織の尺度に同化してしまっていないか、偏っていないかの点検は必要でしょう。

長年「駒」として生きてきた人生観

私は、荒木さんが「ユニーク」と評価する感性を持つ人間です。「低空飛行」とレッテルを貼られたおじさんの心の動きが痛い程わかりますし、羽生氏のことばから、瞬間的に自分を将棋の駒に投影させていました。

自分は、組織の中である役割を担って働く駒に過ぎない、組織内では全知全能を司る会社の尺度で評価されるのは仕方がないし、状況次第で捨て駒にも合い駒にもされることを覚悟しておく、という心構えでやってきました。

自分という存在が、誰か他人を駒のように扱うことを許された全知全能の支配者である、という意識を持ったことはありません。組織内には、支配的な価値観や尺度があり、あるレッテルを貼られて扱われるものだ、というのは、私が持っているかなり強固な人生観として根を張っています。

ホッケーをやり始めた頃、ある先輩のことばが強く心に残っています。

あいつはうまい、と普段から思われている選手は、いいプレーをすれば、「やっぱりな」となり、悪いプレーが続くと「どうしたのかな」と心配してもらえる。ところが、あいつは下手だな、というレッテルを貼られている選手の場合は、平凡なプレー、悪いプレーが「やっぱりな」となり、いいプレーをしても「まぐれかな」と無視されてしまう。この差は大きいよ。

組織から貼られた、自分の意に沿わないレッテルを取り除くのは容易なことではありません。だから私は、周囲に出来上がっている強固な呪縛から逃れるには、属している組織から離れる以外に対処法はないと思っています。

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