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「商品」と「作品」という話

本日のテーマは、『「商品」と「作品」という話』で掘り下げて考えます。

「商品」と「作品」の違い

「商品」と「作品」の違いを考えるきっかけは、活動をフォローしているキングコングの西野亮廣さんが、『「商品」と「作品」の定義を明確にわけている』と語っていたからです。西野さんの定義によれば、

商品…世間のニーズを調べてそれにマッチするように生み出すもの
作品…作者が本当に作りたいもの

「商品」は、マーケティング(届けたい対象のニーズ)が予めビルトインされているという特徴があり、「作品」は、届けたい対象に確実に届ける為にマーケティングが使われる。両者には明確な違いがある、という話です。

「商品」と「作品」、どちらに優劣があると一概には決められないものの、西野さんが作りたいものは一貫して「作品」であり、全精力を傾けて作った「作品」は、全力でお客に届ける努力をする。そして、「作品」を作り続けるために作り続けられる環境を整備する、という考えでした。

「商品」として歩む人生…

私がこの話を聞いて思ったことは、人間も「商品」として生きるのか、「作品」として生きるのか、選択肢がありそうだということでした。以前母親が私に対して「あんたは私の作品や」と言っていたのを思い出しました。母親にとって私は、どんなに世間からの評価や価値が低かろうと意味がある存在なんだ、ということなのかもしれません。

実際には、私はこれまで「商品」として生きてきたと思います。中学・高校・大学と世間一般的なルートを歩み、会社に就職して組織人として活躍するのに適した経歴を選んできました。

「社会に出て絶対にこれをやりたい」という強い願望はなかったので、直観的に自分にとっていい、向いていると感じた会社を選択し、就職しました。会社は、私の商品力を認めて、雇ってくれたものと理解しています。

会社に入ってから、40代半ばくらいまでは、しらけずに自分が会社に提供できる価値を高める努力をコツコツやってきたように思います。職業人として、労働力として進んだ道、取り組んだ仕事が、自分の資質に対して最適の道だったのかは、よくわかりません。

会社員になって最低限叶えたかった三つ夢、

① 東京で働きたい
② 海外に関係する仕事をし、海外出張に行きたい
③ 海外で働きたい

は達成したので、会社員を選択したことに悔いはありません。

私という人間の商品力自体が不足していたのか、能力をアピールするマーケティングが不適切だったのか、会社や労働市場から圧倒的評価を受ける存在になれなかったのは残念だとは思っています。

「作品」として歩む人生…

40代後半位から、周囲の期待に順応して生きることにこれまで感じたことのないような苦痛と違和感を感じ始めました。いわゆる社畜的な生き方ではなく、唯一無二の「作品」として人生を歩みたいという贅沢な欲が出てきて、抑えられなくなっていきました。人生50年経過したら、無謀な行動をしてもいいだろうという気持ちになっていきました。

「作品」として生きる決意をするのなら、私自身が世間に求められるだけの人間力と能力、言い換えれば「商品」としての価値があることが前提条件になりそうです。人間はひとりでは生きていけません。自分では所属するコミュニティに何の価値も貢献も提供しないのに、コミュニティからメリットだけを受け取り続けることなど不可能な話でしょう。

西野さんは、「作品がウンコでは話にならない」という言い方をします。世間から求められていないのは、届けたい「作品」のクオリティが話にならない(=ウンコ)のが理由だ、という冷徹な現実です。

私が「作品」として生き続けられるかは、わかりません。少なくとも今現在、生き続けられる環境は確立できていません。今の私は自由という美名のもとに引き籠り続ける社会の厄介者でしょう。再び「商品」として生きる日々に舞い戻ることになっても後悔はありません。



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