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絶対的な師匠を持たない生き方

本日は、自分の人生に強い影響を与えてくれる師匠の存在について掘り下げたいと思います。
「あなたには師匠と呼べる人がいるでしょうか?」


特定の師匠はいらない って思っている

私は「ひとりの師匠を決めて、師匠に言われたことには問答無用で従う」というスタイルの人間関係を築くのは苦手です。

何かを究めたい…… 何かを習いたい…… 何かを身に付けたい…… と思った時には、誰か一人の師匠を定め、その人から徹底的に学ぶのが最適な方法であると言われます。

手っ取り早く成果を出すには、信頼できる師匠に私淑するのが確度の高い道であることは否定しません。
全くのゼロ状態から何かを始める時には、手取り足取り、初歩の初歩、基礎の基礎、から教えてもらう時期は必ず必要なので、最初の段階で、誰に、どのように習うのかは非常に重要です。

しかしながら、全人格的に一人の師匠に追随することが私には出来ません。師匠にあたる人が、どんなに優秀で人格円満な人であったとしても、ずっとずっと上下関係を維持し続けるのはしんどいと感じてしまうのです。相手を尊敬して素直に学ぶのと、従属するのとは別だと思っています。

自分が職業選択をするにあたり、師匠ー弟子の徒弟制度的な人間関係が色濃く残っていそうな業界は嫌でした。あくまでも私の偏見ですが、避けたのは飲食業界や職人の徒弟制度のような世界です。料理やものづくりに興味はあっても、従属的関係を強いられそうな職場に身を置いて、うまくサバイバルするのは、自分の性格的に無理だろうなと思って避けました。

全て師匠と考える

師匠
①学問または武術・芸術の師。先生。
②歌舞音曲などの遊芸を教える人。
③寄席芸人に対する敬称。

デジタル大辞泉

とはいえ、「師匠」的存在が全く必要ないとは思っていません。私の「師匠」についての考え方は以下の通りです。

● どんな人からだって学べるところはある。その人の素晴らしい所、真似したい所だけを、私自身が取捨選択して吸収したい。
● そう考えれば、過去に生きた人達、現在生きている人達全員が自分の師匠である。
● ただし、その人とどのような人間関係を築くかの主導権はあくまでも私自身にある… 

"私自身が判断して"というのは、随分と不遜な考え方だとわかっています。わかっていますが、この考え方はこれからも譲れないだろうと思います。

特定の師匠を持てなかった理由の考察

私にも、会社に入って仕事の基礎を教えてもらった人、憧れを抱く人、目標としている人、教えを請うた人、影響を受けた人は大勢いて、そういう人たちに感謝の念は忘れていません。ただ、その存在を絶対視し、仰ぎ見るように接し続けている特別な師匠はいません。

世の中には、師匠-弟子の関係が後に崩壊し、険悪な関係になってしまったという話を聞きます。
ー 師匠に敬意を払わず、助言にも素直に従わない生意気な弟子……
ー 弟子の業績や価値を正当に認めず、いつまでもマウントしてくる面倒臭い師匠……

どちらにも言い分があり、それぞれの立場から素直に歩み寄れなくなってしまった結果、大きな隔たりが出来てしまう例でしょう。私は、師匠と弟子のどちらの立場になっても、このような状況を作ってしまう素養がありそうなので、特定の人との師弟関係に踏み込むのが怖いのです。

学生時代の恩師や仕事を教わった上司・先輩たちと、卒業後や独立後も濃い関係を持ち続けている人は立派だなあ、きちんとした人だなあと思います。人間関係で義理を立てて生きるのが、人としてどれだけ重要なのかわかっていない、と言われればその通りです。でも、それができません。

特定の師匠を持たない弱みも感じる

最近は、特定の師匠を持てないのは、私が人間的に欠落していて、価値観が揺れ動き続ける証左なのかもしれないと考えるようになっています。

師匠よりも少し現代的なニュアンスのある言葉に「メンター」があります。私には、常に慕い、相手も慮ってくれるような信頼関係で結ばれたメンターもいません。

特定の師匠には師事しないし、教えを授ける弟子もいない方が自由で柔軟に生きられる…… と考え続けるのは意固地過ぎるのかもしれません。もっと自由で、健全な相互信頼で結ばれた素敵な師弟関係も一杯あるのかもしれません。特定の師匠がいると言える人は、一体どういう心境なのでしょう?



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