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【三沢光晴と阿修羅原】2人の名選手がくれた12歳のかけがえのない思い出

先日、6月13日はプロレスラー、三沢光晴さんの命日。突然の死の報せを聞いてから、はや15年という月日が経ちました。

三沢さんの忘れられない思い出があります(当時『週刊プロレス』にも掲載して頂きました)。

あれは、1983年12月5日の全日本プロレス、福岡国際センター大会を観戦に行った日のこと。

この日は、年末恒例の「世界最強タッグ決定リーグ戦」の公式戦を含む全9試合が行われました。

この年の最強タッグ参加チームは以下のような豪華さ。
あの、マスカラス・ブラザーズも出場!

スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ
ジャイアント馬場&ドリー・ファンク・ジュニア
ジャンボ鶴田&天龍源一郎
タイガー・ジェット・シン&上田馬之助
ミル・マスカラス&ドス・カラス
バリー・ウインダム&ロン・フラー
阿修羅・原&マイティ井上
ザ・モンゴリアン&鶴見五郎

ちなみにメインイベントは

スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ
VS
ミル・マスカラス&ドス・カラス

の公式戦でした。

開場後すぐ、まだお客さんが入りきっていない会場。

当時は、試合前に会場内で選手がウォーミングアップをしていたり、歩き回ったりしていて、気さくにファン対応してくれていた良い時代です。

12歳だったわたしは、カメラと色紙を片手に、選手の姿を探していました。

そんなとき、客席の中に一際大きな背中を見つけたのです。それが、阿修羅・原さんです。

原さんは、前方の客席にどっしりと腰を下ろし、トレーニング直後なのかタオルで汗を拭いていました。

わたしは、原さんのそばに駆け寄り、恐る恐る色紙を両手で持って「あの〜、サインをお願いします」と差し出しました。

普通なら、仏頂面な表情で色紙を受け取り、無言のままサインをして、サッとこちらに渡してくれるのかもしれません。原選手の対応は、そんなイメージでした。

しかし、意外な反応が返って来たのです。

原さんは、わたしに向かってニッコリと柔和な表情を向け、こう言いました。

俺のサインが欲しいの?本当に俺のでいいの?そうだ、いいこと考えた、おーい!三沢、ちょっとこっちへ来てくれない?

と、たまたま近くを通りかかった三沢さんを呼びました。

この頃、まだデビューして2年強だった三沢さんは、第2試合で越中詩郎選手とシングルマッチを行う予定です。

いきなり先輩の原さんに呼ばれた三沢さんは、びっくりした表情をしながら、こちらへと駆け寄って来ます。

三沢、お願いがあるんだ。この子が俺のサインが欲しいっていうんだけど、俺じゃなくて、外国人選手のサインがいいと思うんだよね。控室に行って、外国人選手の寄せ書きサインをもらってきてあげてくれないかな?

わたしは、その言葉に驚愕しました。

それまで、たくさんの選手にサインをおねだりして来ましたが、そんな対応をした選手は初めてです。

驚きと、嬉しさで複雑な感情が込み上げます。

三沢さんは、先輩の頼みとあって「はい!」と威勢の良い返事だけを残し、僕が原さんに差し出した色紙を持って、早足で控室へ向かいます。

三沢さんが控室に行っている間、原さんと何を話していたのか、緊張で全く覚えていません。ただ、強面の原選手のイメージが見事に覆ったのは覚えています。

それから、どれくらい経ったのでしょう、しばらくすると三沢さんが小走りで帰って来ました。その手には、4、5人の選手のサインが書かれています。

正直、誰のサインかは分かりません。参戦している選手の誰かなのでしょう。

原さん、サインもらって来ました。全員分ではないですが、これでいいでしょうか?

おう、いいじゃない、ありがとな

と原さん。

そして、原さんはこう言葉を続けました。

おい、三沢。未来の全日本のエースのサインも書いてもらわなくちゃ、困るぞ。ここにサインを書いてくれてる外国人選手のライバルになるんだからな、お前は

と受け取った色紙を、再び三沢さんに渡しました。

三沢さんは、「はい!」とまた威勢の良い返事をして、照れくさそうに色紙にペンを走らせます。そして、それを僕に渡して「これでいいかな?」と、ニコリとしてくれました。

思わぬ寄せ書きサインに、飛び上がるくらい嬉しかったのですが、原さんのサインも欲しかったわたしは「あの〜…原さんのサインもお願いします」と申し訳なさそうに言いました。

原さんは「やっぱり、俺のももらってくれるの?ありがとうね」と、照れたような笑顔を浮かべ、外国人選手と三沢さんのサインの脇に、一番小さくサインを書いてくれると、それをわたしに渡して「さあ、俺も試合の準備をしよう」と言いながら、立ち上がって、颯爽と控室へ去って行きました。

三沢さんは、その翌年には越中選手とともに、メキシコへ遠征。翌年に帰国するとタオガーマスクとなり、一躍スターダムへとのしあがり、90年代には素顔となって、大活躍。

原さんの言葉通り、全日本のエースとなり、当時参戦していたハンセンは三沢さんの好敵手となりました。

原さんは、見抜いていたんですね。

12歳のわたしは、2人の名選手と本当にささやかですが、良い時間を過ごし、素晴らしい思い出を作れたと感謝しています。

今でも、プロレスが好きでいられるのは、この体験があったからといっても過言ではないかもしれません。

因みに、あの寄せ書きサインは、残念ながら引っ越しに次ぐ引越しで、紛失してしまいました。

原さん、三沢さん、ごめんなさい。

三沢さんが亡くなった日の翌日は、NOAHの福岡大会。

祭壇に手を合わせ、12歳当時の思い出に、感謝を伝えることが出来ました。

当時、撮った古い画像を。

会場に設けられた祭壇
花を手向けるファン
インタビューに答える齋藤彰俊選手

阿修羅・原さんは、2015年4月28日に68歳でお亡くなりになられました。
一方の三沢さんは、46歳で。

お二人とも、早世されたことが残念でなりません。

原さんは、三沢さんの死をどのように受け取っておられたのでしょうか。


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