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神はどこにいる?-舞台「ピサロ」観劇レポ-




パルコ劇場で舞台「ピサロ」を観劇してきました。

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昨年の初演の際は、緊急事態宣言のために10公演で泣く泣く中止。

そして今回も、三度目の緊急事態宣言で肝を冷やしながら初日を迎え、今回は完走すべく奮闘している。

舞台「ピサロ」は、征服者ピサロと、インカ帝国の最後の国王アタウアルパの物語。ピサロを渡辺謙、アタウアルパを宮沢氷魚が演じます。


以下ネタバレも含むので、観劇予定の方はご注意ください。







神の存在


宗教というものは、わたしの心をいつもグッと掴んで離さない。大学の授業の中でも、キリスト教史や神学論の授業が特に好きだった。自分自身はお墓参りすらもいい加減な無宗教の家庭に育っている。だからこそ、いつの時代もどの国でも、人々が縋り、頼ってきた神という存在に大変興味があったのだ。


一方、キリスト教布教という名目の下に各地を植民地化して征服していった中世ヨーロッパの歴史は、歴史的出来事として勉強はしていた。新境地開拓、大航海時代は、想像するものではなく「暗記するもの」で、希望峰はバルトロメウ・ディアス、コロンブスはアメリカ大陸、アステカはコルテス、インカはピサロ……大学受験世界史では★2レベルの常識問題だ。中でもピサロは、コルテスと違い、金(きん)を出したら解放すると約束して金を集めさせたのにその約束を裏切って全員を虐殺し征服したという悪い印象とともに暗記した記憶がある。その征服、という言葉の奥に流れた血のことや、虐げられた人々へ思いを馳せることは、高校生のわたしには終ぞなかった。


しかし改めて想像してみると、言葉の通じない、見たこともない相手を目の前にするというのは、今の我々にはなかなか想像し難い。強いて言うなら、宇宙人の星に行くようなものだろう。たしかに宇宙人の星に行こうとしている人は、一定数今の時代にもいるが。暗記時代を超えて今、改めて想像する28歳のわたし。



「え??それ、めっちゃ怖くない??」



アフリカや南アメリカ大陸では、いまだに孤立する謎の民族の集落がいくつかあると聞く。では、

よし、なにやら人を食ったりするらしいけど、彼らがハッピーになるように、天照大御神とかブッダとか、白い米のおいしさとか教えたろ、よし、行こ。


とはならん!!!!!!!断じて!!!!!!



そう、新境地開拓の表向きの名目はいつだって「神の御加護を与えにゆく」のであって、キリスト教を布教することが「善意の行い」であるという前提のもとだった。キリスト教は当時のヨーロッパでは当たり前、神は生まれた時から有り難く尊いものとして教えられ、空気のようにいつもそこにあるのだという。


だが、実際に現地の人を服従させ、逆らったり謎の動きをしたら殺す、実際に征服する兵士たちはどうだったか?どんな武器やマジナイを使って殺されるかもわからない、生きるか死ぬかの状況の中で、ただ空気のようにそこにあった神様のことを伝えるためだけに、人を食うかもしれない民族のところへ乗り込むことが、はたしてあるだろうか?彼らにとって、「神」はどれほどの大きさなのだろうか?


ピサロは劇中で、常に貧困に喘ぎ、貧富の差を目の当たりにしながら自らが育った貧しい故郷の村で兵士たちを募る。ピサロは彼らに「金(きん)が山ほどある土地に行く」と誘い、兵士らは、

「手柄を立てる」「自分の土地を手に入れる」「金と自由を手に入れる」

という夢のために、ピサロの誘いに乗るのだ。当然村人の中の一人は「俺は嫌だね、死にたくない」と言って、旅路の途中で離脱する。そりゃそうだ。だが彼以外は、インカ帝国の金(きん)を手に入れて、やれ牧場を開く!やれ女郎屋をやる!と、それぞれがいろんな夢を見て、険しい道を進み、人々を殺め、征服を進めたのだ。その夢の中に、イエスはいなかった。彼らにとってイエスキリストと聖母マリアは、空気だ。当たり前にそこにあって、努力して手に入れるものじゃないし、別におすすめしなきゃいけないものでもない、と言う感じがした。


ピサロ自身もそうだ。印象的なセリフに

「神は何をしてくれた?…王は何をしてくれた?」

というのがある。教会の前に捨てられ、豚の乳を飲んで育ったピサロに神は何もしてくれなかった。手柄を立てても、生まれの悪いピサロに王はなにもくれなかった。

だから、今回は、誰もがひっくり返るような手柄を立てる。そして、今度こそ認めさせてやる。いい生活を手に入れてやる。

最初のピサロの目的は、これだった。


インカへの旅には、エステテという国王代理が同行した。これがまた素晴らしく鬱陶しく演じていらっしゃって最高である。エステテは、国王のいない場では我こそが国王であり、我を侮辱することはすなわち王を侮辱することだ!とふんぞり返っているが、彼の目的は単純明快、まさに「インカ帝国をスペインの領地にする」ことである。そのために、キリスト教を使う。

つまり、

スペインという国によるインカ征服という大きな目的のもとで、表向きの名目は「キリスト教布教」、だがそれ以下の、実際に手足を動かす戦士たちの目的は「ただ目の前の貧しさから抜け出す、一攫千金の夢の実現のため」


旅の仲間たちには、目的の乖離がある。この乖離をこの舞台ピサロでは巧みに表現していた。



腐敗してゆく聖職者たち

劇中に2人の聖職者が出てくる。征服地でキリスト教を布教し、皆に洗礼をするのは彼らの役割だ。第一司祭のヴァルヴェルデと副司祭のデ・ニザの二名が旅に同行するわけだが、「神の御加護が在らんことを」と事あるごとに兵士たちに言うヴェルヴェルデは、アタウアルパに聖書を投げられただけでブチギレて「殺せーーーー!」と第一声を上げる。神を司る司祭である彼の感情的な合図で、大虐殺が始まるという、非常に象徴的なシーンだ。


この舞台の舞台(ややこしい)となる1500年初頭といえば、まさにカトリック教会の腐敗が進んでいた頃だった。司祭たちはキリスト教で私腹を肥やし、人々の罪をゆるす贖宥状を乱用、その状況に疑問を呈したルターが「95箇条の論題」を掲げるのが1517年。司祭を必要としないプロテスタントが生まれる。ヴェルヴェルデはまさに腐敗した教会をあらわしており、金の分配にも一目散に駆け出していく。

一方のデ・ニザは、自分の思い通りにならないアタウアルパにブチギレる第一司祭を横目に、すらすらとイエスこそ神であると説明していく。感情的になる司祭と、いつだって理路整然とした司祭の対比。窪塚俊介氏演じるこのデ・ニザの、後半にかけてのサイコっぷりが気味悪くて最高だった。


デ・ニザのセリフには

「人には飢える権利がある。不幸になる権利がある。不幸があるから幸せを感じることができる。それが自由であり、愛である。この国(インカ)には愛がない。王が、耕す土地も仕事も番いの相手も全て、なにもかもを与えてしまうからだ」(うろ覚え)

こんな言葉があった。非常にむずかしい。

また後半には、こんなセリフもある。

「愛を救うためには、愛なきものは殺さねばならなぬのです」

これについてずっと考えている。


飢える権利


インカ帝国は交通網も整備されて、人々は年齢によって仕事を与えられ、耕す土地も平等に与えられ、結婚する歳も決まっている。だから飢える人もいなければ、富む人もいない。絶対的王であり、太陽の子であるアタウアルパの絶対君主制の社会主義国家だった。王は太陽に決められた年齢までは決して死なず、死んでも夜を超え朝日が彼を甦らせると、アタウアルパをはじめインカの人々は、インカの滅亡まで、それを本気で信じていたのだ。神を本気で信じれば、恐怖で身体が震えることも、裏切ることもない。それを、アタウアルパは自らを賭してピサロに教えることとなる。


さて、デ・ニザのセリフだ。

不幸があるから幸せを感じることができる、というのは確かにそうかもしれない。考え方として同意する。

では、キリスト教の神は、あえて不幸に人を貶めていると言うことなのか?あのセリフはキリスト教一般の意見というより、デ・ニザの歪んだ解釈が若干入っているような気がする。だが、もしも不幸も幸せもない国があるのなら、わたしはそこに行きたい、と、ちょっと思ってしまった。そして、最貧困層から成り上がったピサロも、飢える権利など馬鹿げている、と、誰もが平等な夢のような国を一人で統治する若い王アタウアルパに惹かれていった。

ピサロは若かりし頃に臨死体験をした。そのとき、夜明けとともに太陽が、一度心臓の止まった自分を死の淵から掬い上げてくれた。そのときから、太陽に並々ならぬ思い入れのあったピサロが、「太陽の子」を自称するアタウアルパに妙に惹かれ、最後には信仰したのだ。イエスは自分を助けてくれたことはなかった。太陽だけが、自分が信ずるに値する存在だったのだ。神様は人が絶望したときに初めて見える光なのだと、初めて訪れた教会で牧師さんが言っていた。実際、その教会で神に祈る信徒たちはみな病に体を蝕まれており、そのギリギリのところを神様が助けてくれた、と涙ながらに訴えていた。16歳の私は、どこにこんなに病気の人がいたの?と驚いたのを覚えている。



「私の父である神は、トウキビを育て、我々に光や食べ物をくれる。命を守ってくれる。貴様らの神はいったいどこにいる?」

太陽の子アタウアルパがヴェルヴェルデに言うセリフだが、これは我々日本人も、キリスト教に対して一度は抱いたことのある疑問ではないだろうか?

一度死んで、3日後に蘇った人がいるってこと?え?どういうこと?んじゃ今はどこで何をしているの?救いがあるのなら、ガンで苦しんで今まさに祭壇で涙を流している信徒を今すぐ掬い上げるべきじゃないの?

と、これは、あのとき教会にいた16歳のわたしが、28歳の今まで持っている問いである。



神様の仕事

わたしのベースには、唯一神はいない。信仰する宗教がないからこそ、思ったことだ。どうか怒らないで聞いてほしい。



貧しさや苦しさゆえに殺人や盗みなどの過ちを犯したら、「過ちを犯す不完全な存在がすなわち人間であり、そんな弱き者に手を差し伸べるのが神である」「ああ神よ、我の罪を許したまえ」→よし、これで許された!心が楽になった!

何か悪いことが起きたら「神の怒りだ」

キリスト教を全世界に広めるようにと「イエスが仰った」

イエスを神と認めないものは殺してもいいと「イエスが仰った」



ピサロを見ていて思ったこと。それは、

人が私欲のために何かを成すとき、

その口実に、イエスはとても便利だということ。


「神は、なぜ沈黙しておられるのか」

これは遠藤周作『沈黙』の中のセリフだ。

わたしは、キリスト教を学んでいて、こう思うことが多々あった。先の教会での問いもそうだ。


だが、違う。


イエスは、いつも沈黙している。悪さをしたやつに鉄槌を下すことも、地獄から人々を救うべく蜘蛛の糸を垂らすこともない。いつだって、沈黙している。


だから、人間の都合のいいように使われている。


それが神様の仕事なのだ。

黙っていることこそが仕事だ。

なるほど、とてもつらい仕事だ。私なら辞職する。


舞台ピサロの終わりには、老マルティンのこんなセリフがあった。


「こうしてペルーは滅亡した。我々はこの国に貪欲と飢えと、十字架をもたらした。文明人になるための三つの条件だ」


人々を平等に守り助ける「愛」を知らぬ太陽神アタウアルパと、

弱きものを許し、自由と愛と不幸をもたらすことで「幸せ」を与えるイエスキリスト。


その狭間で翻弄される、ピサロ。



さいごに

今作は、ピーターシェーファー作の戯曲が元である。すなわち、史実を元にしたフィクションに過ぎない。

また、現在史実と言われている多くのことも、数々の歴史家が掘り起こした文献から推測されたものに過ぎず、その元にする文献自体も、筆者の主観によるものであるので絶対ではない、常に全てを疑ってかかれ、というのが、わたしが上智史学科で一番最初に教わったことだ。つまり、歴史においてすら、何が間違いで正しいのかなど、誰にもわからない。

実際今スペインでは、ピサロの存在はアナーキズムを刺激するとして、歴史の授業で教えられないという。


アタウアルパとの約束を裏切ってインカを滅ぼしたとして、スペインの歴史からも消されようとしているピサロが、いかにしてそう言われるようになったのか、その背景を想像させること。

フィクションだとしても、それこそまさに演劇の意義だと、わたしは思う。




最後の最後に、閑話休題。


観に行く前に下調べとしてTwitterでレポを読んでいたら、「新手の歳の差BL」と書いているレポがあった。うかつにもその言葉を予習として持っていってしまったために、後半で爪に「神」と書いてもらってはしゃぐ美しい宮沢氷魚アタウアルパを見ながら

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つい課長がでてきてしまった。宮沢氷魚さんのアタウアルパは、とにかくもう文字通りこの世のものと思えない美しさで、真っ白で無駄がなく、うん、たしかにこれは神だわ、崇めたくもなるわ、と納得してしまう。

あまりにおっさんずラブが頭をよぎるので、ふと、ピサロを吉田鋼太郎さんが演じたら?と想像した。蜷川監督の舞台で幾度も見たことがあるので、「しゃああああんとしろおおぉぉぉぉお!!」と言う、渡辺謙さんの100倍うるさく、最期の時までギンギンに生命力が漲っているピサロが容易に想像できた。うん、渡辺謙さんがピサロで本当に良かった。素晴らしい配役。疲れ果ててヨロヨロになったところがたまらなくよかった。映画で見るよりも舞台の渡辺謙さんが好きだなと思った。戦士たちもインカの国民も、演出も美術も、これ以上ないくらい、文句のつけようがなく素晴らしく、「見て良かった」と心から思える作品だった。なのでレポがこんなに長い。実に3日かかった。


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歴史や宗教だけでなく、腐女子も少しかじったわたしからすれば、歳の差BLとしてもおすすめできる今作舞台ピサロは、6/6までパルコ劇場で上演中だ。チケットは…今から取れるかわかりませんが、取れそうならぜひみてほしい。劇場の感染対策は万全でしたよ。


最後まで読んでいただきありがとうございました。









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