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祖父がいた場所

都電荒川線の終点、早稲田停留所すぐのところに祖父はいた。今はもう無い、古い家だ。

私は祖父を「早稲田のおじいちゃん」と呼んでいた。早稲田にいるおじいちゃん、そのまんま。

早稲田のおじいちゃんの庭にはポンプ式の井戸があり、子どもだった私は遊びに行くたび面白がってポンプを上下させ、ジャージャーと水を出したものだ。赤い水が出る。普段はもう使っていない。

その土地でうまれ育ち、たくさんの思い出がある母。「昔はここで洗濯をしたものよ」とよく言っていた。

身近な人が亡くなったのは、その時が初めてだっただろうか。祖父の妻、つまり私にとっての祖母が亡くなった。

祖母が亡くなり、「早稲田のおじいちゃん」の家に親戚がかけつけた。
みんな泣いていたが、私は泣けなかった。どうやったらまわりにあわせて泣けるかを考えていた。今でもよく覚えている。

子どもだった私には、人が亡くなることが実感としてわかなかったのかもしれない。結局、涙は出なかった。

ちょうどその頃、祖父の住んでいたあたり一帯が再開発されるという話、タワーマンションが建つそうだ。

祖母が亡くなり、一人になってしまう祖父。

慣れないタワーマンションで独り暮らしをさせまいと、父と母で話し合ったのだろう。気がつけば、私たち家族と一緒に住むことに決まっていた。

住むといっても、当時の我が家は二世帯で住むには手狭な家だ。祖父との暮らしを機に家を売り、家を買い、引っ越しをした。

祖父との思い出はたくさんある。一緒に住み出してから、私が高校一年生のときに祖父が病気で亡くなるまで、家族の中でも一番多くの時間を過ごしていたのかもしれない。

祖父との思い出...
それもいつか記憶が薄れてしまう日が来るのだろうか。今はただ、祖父がいた場所をここに残しておきたい。

早稲田のおじいちゃんの家は、商店を営んでいた。商店とは別に会社勤めをしていたというので、今でいうところのダブルワークだ。

一階の一角が店舗、階段をほんの数段のぼると生活の場となる台所や居間がある。奥には寝室があり、さらに狭い螺旋状の階段を二階(正確には三階?)へとのぼると、物置きのような部屋がある。

ぼんやりとだけれど、私はその二階へ探検に行くのが好きだったことを覚えている。

ときどき、可愛いモノを見つけ、祖父にねだる。例えば、釣具のウキとか。オレンジ色と蛍光イエローの丸いウキ。
手のひらにコロンとおさまる。可愛いくて持っていたかった。そういう掘り出し物を見つけられるワクワクするところだ。

物置き部屋には日本人形があっただろうか、暗いときは少しこわくて、ひとりでは行けなくなってしまう。(おや、その日本人形は、実家にあるぞ!引っ越しのときに一緒に連れて来ていたのだ!)

一階に和式のトイレ。天井近くのタンクから垂れ下がる長い鎖のようなものを引っ張ると、水が勢いよく流れる。冬はすごく寒い。出来れば行きたくないが、結局何度も行くことになる。遊びに行くと必ず祖母が三ツ矢サイダーを出してくれる。今となってはレトロな花柄のガラスのコップに注ぐ。たくさん飲むからか、トイレが近くなる。

居間には鉢植えのおじぎ草があった。
遊びに行くたび、私の遊び相手になってくれる。指先でちょんと触ると、おじぎをするように葉が閉じる。また元どおりに開くのを、じっと待つ。またちょんと触る。延々と繰り返す。おじぎ草もさぞ疲れたことだろう。

居間では祖父が黒い革張りの椅子に座ってテレビだ。タバコの煙で霞んでみえる野球、延々と野球の中継。

早稲田のおじいちゃん!だからタバコは身体に良くないって!今の私なら、絶対に絶対に厳しく言って、タバコを取り上げる。

庭に出て、小路を緩やかに下り少し進むと、すぐ目の前に都電が見える。懐かしい風景。


三ツ矢サイダーを注ぐ花柄のガラスのコップも、延々と終わらないように感じたテレビからの野球解説の声も、疲れきったおじぎ草も、寒いトイレも、二階の物置き部屋の丸くて可愛いウキも、今はもうない。

胸の中にしまっておくだけでは、ずっとずっと覚えていられる自信がない。どうしたって今はもうそこにないから。記憶は薄れるばかりだ。

道行く人は誰も知らないけれど、早稲田のおじいちゃんは確かにそこにいたし、早稲田のおじいちゃんの家も、そこにあった。


祖父がまさにいた場所、早稲田のおじいちゃんの家の跡地は、タワーマンションにはならなかった。

タワーマンションのすぐ隣の、小さな憩いの場だ。公園と名のつくその場所にはベンチがあり、つつじが植えられていた。

あのポンプ式の井戸はもうない。

ポンプで水をくみ上げ、赤く濁った水が透き通ったら、ひっそりとたたずむ木々に水をまいてあげたい。

私が水をまく場所が、祖父のいた場所だ。



早稲田のおじいちゃんへ捧げる
...なんつって。


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