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肝臓をいただく、ということ②

入院生活が楽しすぎる!

入院して数日経ったころ、部屋を移動した。
そこからは不忍池や旧岩崎庭園、マンションが見え、小さな兄弟がお父さんと道路でサッカーのパス練習をしている日常風景が垣間見れた。
そこでだいぶ気持ちが明るくなっていき、それとともに周りが見え始めた。
検査がひと段落したころには、個性豊かな病棟スタッフがいる入院生活が楽しくなっていた。

東大病院の1日

東大病院はだいたいこんなスケジュールで動いている。

6:00     起床 検温など
7:30ころ   先生方が病室を回って、状態を確認
8:00     朝食
10:00      検温
                         検査や処置
12:00      昼食
14:00      面会開始
17:30      検温
18:00                夕食
20:00      面会終了
21:00                消灯 

シーツ交換は水曜日。
先生方の回診は火曜日。
回診の日は廊下に人が多く、病棟がざわざわしている。
「白い巨塔」の「財前教授の総回診です」を期待していたが、そんなに仰々しいものではなく、いつも分かれて顔を出してくれる先生が全員揃って見に来てくれるといった雰囲気だった。
ただ先生方はいつもと違い、シャツにネクタイだったので、それなりに気の引き締まる時間なのだろうと思う。
私は結構楽しみにしていて、先生たちが病室に近づいてくるといそいそとベッドに入って待っていた。

ドクターたちへの信頼感

毎日、接するたびに先生たちの移植に対する情熱や患者に対しての思いやりを感じた。
毎朝7:30にすべてのベッドを周り「変わりないね」と声をかけてくれるのは最初に診断してくれたA先生。いつ見てもアクティブに患者のために飛び回っている彼は、移植外科の准教授だった。毎日びっくりするくらい元気で明るかった。
生きるパワーみたいなものを発光しているようだった。
このときの私の主治医は移植内科のH先生。
不安はもちろん嬉しいことも穏やかに寄り添ってくれる人で、先生と毎日話すのが楽しかった。
移植という医療が抱える問題から、行ってよかったホテルなど話題はいろいろあった。
H先生には人としての豊かさを感じた。
私が文章を書く仕事をしているということを知って、肝移植の記録を残すことを薦めてくれたのもH先生だった。
乳腺外科のM先生は検査のとき、骨粗しょう症による背骨の圧迫骨折の痛みで診察台に上がれない私をどこまでも気遣ってくれた。
痛くて痛くて仰向けになれない。
それでまでも検査のたびに泣きながら診察台に移った。
ほかの科の先生は必要な姿勢だから、と「我慢してね」「頑張ってね」というスタンスだったが、M先生だけはストレッチャーのまま診察する方法をとってくれた。
ストレッチャーから診察台に移動するのがいちばん負担だったからだ。
自分の仕事を貫くけど、相手の痛みの軽減を模索する。
こんな素敵な女性になりたい、と憧れてしまうような先生だった。
リハビリを担当してくれたのは私と同じくらいの年齢の女性だ。
大学で日本文学を専攻していたという。理学療法士では珍しい学歴なのかな、と思う。
入院中、東京に雪が降った日があった。
そのときMさんが「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ」という詩の一節をつぶやいた。
「それ、誰だっけ?」と聞くと「三好達治」。
私も国文学部出身なので詩でもつぶやきたいと中原中也の「汚れちまった悲しみに」を思い浮かべたけど、間違ったらすぐにばれてしまいそうで、声に出すのはやめた。
Mさんは私の身体のケアだけでなく、メンタル面も引き上げてくれた。Mさんとおしゃべりしているとき、Mさんが楽しそうに笑ってくれたとき、本当に嬉しかった。
クリスマスシーズン、1階の中庭にイルミネーションが点灯される。
「見てみたいなあ」という私がそっともらした声をMさんは聞いてくれていた。
翌日、イルミネーションが点灯する16:00に迎えに来て、一緒に見に行ってくれた。

愛しの看護師たち

東大病院9北の看護師さんたちの勤務体制は日勤さんが8:00〜16:00、夜勤さんが16:00〜8:00が基本だ。
でも夜勤さんはだいたい14:00にはスタッフステーションにいる。
患者ひとりひとりの情報、それはカルテからや世間話まで、を集めているそうだ。

日勤さんは1人で5人前後、夜勤さんは10人前後を担当する。
担当患者がいる看護師のほかにはリーダーと呼ばれる全体の状況判断をする人、フリーの看護師、検査室への往復や食事の配膳、パジャマやタオルを配布してくれる看護助手さんがいる。
夜勤の看護師さんに病欠が出ると、絶望的に忙しいんだろうなと思う。
でも看護師さんだって、看護師さんのご家族だって、風邪はひくし、体調を崩すことはある。
その日、出勤の看護師は患者にはみじんも感じさせないいつもと同じ様子で、笑顔で乗り切っていた。
持ちつ持たれつだから、と言うが、すごいと思った。

みんなに感謝していた。
できるだけ「ありがとう」を伝えたいと思っていた。
そのうちに看護師さんと病気の事以外でもお話をしたくなった。
でも髪を結んでメガネをかけてマスクして、という人が圧倒的に多くて、顔が覚えられない。
名前を覚えたいと、新しい方が来るたび名札に目をこらしていた。

プライマリーナースのYさんはとてもかわいらしい人だ。
最初、なんであんなに怖いと感じていたのか、今では分からない。苦しいときはいつも駆けつけてそばで見守ってくれていた。

看護師さんたちは朝6:00から採血をして周り、体温、血圧などを測定する。
私は薄らぼんやりしながら「おはよう」と言い、今日の天気を聞くのが日課だった。
あるとき、朝食のあとすごく眠くて、珍しく寝てしまったことがあった。
その日、日勤の看護師さんが点滴を変えにきても私は気づかず寝ていたそうだ。
そのとき来てくれた看護師Iさんが「早川さんって、あんなふうに寝るときある?いつもと違う?」と気にかけてくれていた。
目が覚めてすっきり起きた私のところにIさんが来たとき「え、眠かっただけですよ」と言うと、「よかった〜」と心から安心したように目を細めて笑ってくれたのはとても印象的だった。
まだ売店に行くのを禁じられていたころ、1階のタリーズに行きたいとわがままを言ったら、勤務後に「約束だから」と連れて行ってくれた看護師さんもいる。
手術日が迫っているころで、2ヶ月以上タリーズには行けないと知っていたから、だったのかもしれない。
タリーズに行けたことより、私との約束を守ってくれた気持ちが嬉しかった。

どの看護師さんも厳しい面もあった。
これはダメだよということはしっかり伝えてくれた。それ以外のことは大人同士として思いやってくれていたし、患者に対するリスペクトを感じた。

ほかに病棟には事務を担当する病棟クラーク、清掃スタッフなど、私が知っている仕事をしている方も知らない仕事をしている方も、たくさんの方が支えてくれていた。

病棟クラーク

病棟クラークは、スタッフステーションなどで入院手続きをしたり、カルテの代行入力や整理をする仕事だ。 主に医師の事務サポートが業務にあたるほか、医療事務の受付窓口になる。 
9北の病棟クラークさんは、いい意味で肩の力が抜けた方で、話しをすると気持ちが明るくなった。

看護助手

看護助手は、主に患者の世話や看護師のサポートをする仕事だ。
看護師との大きな違いは、資格の必要有無で、看護助手は資格が不要だが、医療行為を行えない。
9北の助手さんは3人いて、日中が2人、夜間が1人。
日中の助手さんは検査に送迎してくれたり配膳を担当している。
私は夜にナーバスになる時期があって、夜間の看護助手のMさんの顔を見ると安心して、ついほろっとしてしまうことが多かったから、いつも気にかけてくれていた。
プロ野球ファンの男性患者と廊下で話していたときは
「ナンパ禁止!」
と笑いながら言っていたこともあった。
男性が「俺がナンパされたんだよー」と言うと、私の顔を見たので
「そうなんです。つば九郎のTシャツ着ていたから、ヤクルトファンかなって思って声かけたんです」
と言うと
「なら、いいわ」。
3人で笑ってしまった。

大好きな友人たち

友人たちには2022年11月の余命宣告を受けた時点で話をしていた。
もう保たないと思っていたから、最後に会いたいという人ばかりだったからだ。
私は友人が多い方ではなく、中学からの親友2人と男友達2人、長男の幼稚園時代のママ友を超えた友達、仕事で知り合った年上の友達くらいだった。

中学生のころからの親友のA代ちゃんは何度も顔を出してくれた。彼女は私を担当するほとんどの医師、看護師を知っているのではないかというほど、病室にいた。
A代ちゃんが持ってきてくれたお見舞いはみんな嬉しかったけど、大学のころ親友2人と3人で行った旅行の写真をアルバムにしてくれたのはすごく感激した。
もう1人の親友A子は忙しい中、駆けつけてくれた。
彼女は私の好きなものを持ってきてくれて、あとはそっと座っていてくれた。
私の体調を常に気にしていてくれたのだと思う。少しでも疲れた顔をすると「じゃあね」と明るく手を振って帰って行った。
私の病気を知ったとき、体験談などを検索して読んでくれていたみたいだから元気そうに見えても消耗していることが分かっていたのかもしれない。
男友達も何度も来てくれた。あまりに自然にいるものだから、薬剤師さんが私の夫と勘違いして、薬の説明をしていた。
彼も神妙な顔をして聞いているから、面白かった。
「友達ですよ」って言うと、薬剤師さんは本当に驚いていた。

幼稚安時代のママ友は4人いたが、全員で千羽鶴を折ってくれた。
一羽一羽に想いが込められていて、進む道が分からなくなったとき、ぼーっと眺めるとなんだか力が沸いた。

仕事で知り合った年上の友人はNYのすてきなおばあちゃんたちの写真集を持ってきてくれた。
「麻里ちゃんの将来の姿だよ」。

私の病気を告げたとき、嬉しかったことと悲しかったことがある。
悲しかったことはすごく仲が良かった友人が「うわー、移植なんてドラマのヒロインじゃん」と軽い口調で言ったこと。
それから一度も彼女からの連絡はなかった。
私が勝手に仲が良いと思い、勝手に彼女も心配してくれると思っただけだ。
彼女は何も悪くない。
でも一緒にいる時だけの友人なんだなって実感した。

嬉しかったことはマンションのママ友の支え。
長男と同じ歳の子供がいるママたちで、みんな同時期に引っ越してきたから、低学年のころは仲が良かった。
でも子供が高校生になってからはほとんど交流がなかった。
私が前の海のそばの病院に入院していたとき、家のインターフォンが鳴ったそうだ。そこにはママ友3人が立っていた。
病気平癒のご祈祷に行ってきて、お札をいただいたからと持ってきてくれたのだ。
私は彼女たちのために何もしていない。
いつもただ一緒に笑わせてもらって、一緒に子育てに悩んだり、世間話をするだけだった。
それなのにこんなにも私が元気になることを望んでくれて、精一杯の心を尽くしてくれる。
新しい関係を作れることを幸せだと思った。
すごく嬉しかった。

妹の友達がお守りを送ってくれたこともあった。
私とは一度もお会いしたことのないのに、病気のことを聞いて、わざわざお守りをいただきに行ってくれたのだ。
妹の友達が、妹を大切に思ってくれることも嬉しかった。
お守りは越木岩神社という兵庫県西宮市にある神社のものだ。
裏山には、豊臣秀吉も動かすことのできなかったといわれる巨岩「甑岩」があるそうだ。
お礼を妹に伝えてもらうと「こんな丁寧なお礼をいただくと思っていなかった」と言われた。
丁寧と言っても「ありがとう」の思いを言葉で伝えただけだ。
この人は何の見返りも求めず、ただ心配してお参りに行ってくれたのだなと強く感じた。
そして「元気になったら、妹さんと西宮にきてください。越木岩神社をご案内します」と言ってくれた。
「ああ、岩を見てみたい」とまた、やりたいことが増えた。

大切な家族

家族は私がどんな状況になっても、ずっと近くにいた。
できることを必死で探して、それでも私の辛さや苦しみがまったく軽減しないことを何度も目の当たりにして、自分の無力さに打ちひしがれたこともあっただろうと思う。
でも、ただただ信じていてくれた。
私が元気になることを。
夫はドナーになることが決まってから、いつもの何倍もナーバスになっていた。
仕事を休まないといけないこと、自分や私になにかあったら、子供はどうするのか、自分の健康管理。
少し脂肪肝があったからジョギングをし、夜は豆腐しか食べなかった。
それでも私の前では笑っていようと決めたみたいに、笑ってくれた。
いい顔してるなって思っていた。
息子2人のうち、下の息子Sは中3、高校受験があった。
この時期に手術するのは正直、いやだった。
自宅療養中、訪問診療してくれていた医師に「子供の受験の負担になりたくない」という話を幾度となくしていた。その当時はまだまだ余裕があるように見えていたので「手術することだけ決めておいて、時期は受験が終わってからでもいいのではないですか?」と話していたが、実際は一刻の猶予もないといった状況で、Sの受験は何も手伝うことができなかった。
上の息子RはSの学校説明会のとき、弟を連れて自分の高校の説明会に参加することになった。
知っている先生方の中に弟を連れて参加するのは高校生には恥ずかしかったと思う。
でも、Sを連れていける人は誰もいないのも分かっていたのだろう。
説明会ではぐーぐー寝ていたそうだがきちんと行って、先生方に「来てたのなら挨拶しろよ」と言われたそうだ。
夫ががんばってくれて、Sも頑張って、受験に立ち向かっていた。

Sは私の入院中、家の手伝いも積極的にしてくれていた。
献立を考える、買い物に行く、お米を炊くなど、細かいけど面倒なことを、さっとやってくれていたそうだ。

Rはお見舞いに来てくれたとき、フルーツサンドとジューススタンドの梨ジュースを持ってきてくれた。
フルーツサンドのうち1つはシャインマスカットで「1個1,000円もしたんだよ」と言っていた。ジューススタンドのミキサーで作るジュースは私が大好きで、中でも季節のフルーツのものを選んでくれたのだろう。
すごく嬉しくて「ありがとう」と伝えたら「また何か持ってくるよ」と言って、笑っていた。
Rは来るといつも部活やバイト、友達とライブに行った話やスポーツの結果の話をしてくれた。
いつも楽しそうなRに看護師さんたちが「17歳、いいな」と言われていた。
そして「イケメンだね。モテるでしょー」と言われて「そんなことないです」と笑顔で話していた。

母は自分も身体がうまく動かせない病気を抱えながら、私のことをずっと心配してくれていた。
入院2日目、次の日の検査のため「水を1滴も飲まないでください」と看護師に言われたことがあった。
そのころは東大病院がまるで軍隊のように感じていたときだったから、「1滴も」という強いフレーズに絶望した。
LINEで「水も飲めない」と愚痴ると母から「ごはんも食べられないの」と返信が来た。
あのときはいらいらして「水が飲めなくて、ごはんがたべられるはずがありません」と返信したけど、母が「水が飲めないなら、せめてごはんだけでも」と思っていたのは痛いほど分かっていた。

妹は毎週日曜日に来て、女性にしか分からない欲しいもの、コスメやかわいいヘアピン、カチューシャなどを持ってきてくれた。
ガールズトークを楽しんで、一緒にお茶を飲んだ。
妹と毎週、会うのは久しぶりだった。
すごく楽しくて、時間があっという間に過ぎていった。

「家族」の不思議さを感じたのは義理の父や母、兄弟やそのお嫁さんたち、親戚からもらった愛情だった。
本当に無償の愛を注いでくれた。
義父と義母とは毎週、電話で話した。
そのたびに「麻里ちゃん、絶対に大丈夫だから」と言って励ましてくれていた。
その言葉が心から出ているものだと、いつも感じていた。
2人との電話で何度も泣いたし、笑った。
義理の兄弟、お嫁さん、親戚と過ごしていると、血のつながりって何だろうと思うことがあった。
血がつながっているから私は母や妹から愛情をもらっているわけではなく、血がつながっていない義父や義母からも大切にされていると感じる。

結局、大切に思えるかどうか、というのが人間関係の根本にあるのだなと思った。


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