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心がずっと忙しい人へ、時間どろぼうに気をつけて。

「いま忙しくて」と言い訳するたびに罪悪感がつのる。返せてない仕事のメール。チェックしてない書類、友人からのLINE。
『忙しい』って言葉の魔術だ。時間は誰にでも平等にあるのに、それがまるで自分にだけすくないように聞こえる。

言い訳をかさねるたびに私は、一人の少女のことを思い出す。
少女の名前は、「モモ」という。

ミヒャエル・エンデの『モモ』を、数ヶ月前に古本屋で見つけた。

その頃の私は、仕事中に話しかけられるとイラッとしたり、「時間がない〜!」と言いながら慌てて作業することが増えていた。平日は朝から晩まで会社で働いて、週末は寝ていたらあっという間に日が暮れて、月曜がくる。部屋は汚くなるし、コンビニにパンやお弁当を買いに行く回数も増えた。こうして一週間すぎて、一ヶ月過ぎて、一年が過ぎる。あっという間に年を取って、なんだか取り返しのつかないことになってしまうんじゃないか。それでも、その生活から抜けられなかった。

そんな私の状況を知ってか知らずか、友人が「ここに大切なものが全部書いてあるよ」と『モモ』をおすすめしてくれた。一緒に入った古本屋で『モモ』を私に手渡したのは、ほかでもないその友人だ。


<時間とは、生きるということ、そのものなのです。>

『モモ』は、時間とは何か、を問いかける物語だ。はじめて出版されたのは今から約五十年前のこと。

世界に、時間どろぼうの影が忍びよって、人々の時間が奪われる。"時間の倹約"を掲げて、みんなが自分らしくいる時間を減らして、効率化と利便性を重視した灰色の町へと、変わっていく。一人の少女・モモだけが時間どろぼうの存在に気づき、立ち向かう…という物語なのだけど、"灰色の町"の描写は、ドキッとするほど現代の日本を彷彿とさせる。

時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつの何かをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとに貧しくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとりみとめようとはしませんでした。
けれど時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして人のいのちは心を住みかとしているのです。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです。

(『モモ』6章 インチキで人をまるめこむ計算 より)

"時間とは、生きるということ、そのものなのです。"このフレーズをなんども自分のなかで繰り返す。

私が「忙しい忙しい」と言ってイライラしていたのは、物理的なスケジュールがつまっているとかそうじゃなくて、心が忙しかったんだ。

それ以来「忙しい」と口にする回数に気をつけたり、「時間に追われる」と思うことをやめることにした。

もし、そう感じたのなら、きっと私の時間は奪われている。
生きているようで、生きていない。こころが死んでいる時間は、生きてはいけない。自分の時間を生きない限りは、その時間は奪われたままだ。


とは言いつつも、毎日仕事はちゃんとあるし、朝からずっと打ち合わせ、みたいな物理的な忙しさはあると思う。そんな中で、心をころさずにどうすれば自分らしく生きることができるのか。そんなことを『モモ』を読み終わってから、少しずつ考えている。

心をころさない方法、ふたつ。

まず、みんな時間を、自分がコントロールできると思ってないだろうか。「時間を節約する」とか「削る」とか、こちらがコントロールしようとするから、思い通りにいかない時にイライラしてしまう。そうじゃなくて、時間は、ただ生活の中に流れているものだということを受け入れること。

そうして、その中で自分らしくいれる時間を増やすこと。
友達と騒ぐ、読書をする、料理をする、好きな仕事をする、ゲームをする、お酒を飲む、noteを書く、とか。
一度、平日に目覚ましをセットせずに好きなだけ大寝坊する、というのもおすすめ。自分らしい時間の過ごし方を忘れてしまったら、見つけにいけばいいと思う。それはそれで、とても楽しそう。


このふたつの方法を実践していても、つい「忙しいからあとで!」と言ってしまうこともある。でも、私の心は前ほど忙しくなくなった。

私も、まだまだ時間どろぼうと戦っている途中だ。
奪われた時間を、取り戻すために。


最後に、物語のあとがきのエンデの言葉を添える。

「わたしはいまの話を、」とそのひとは言いました。「過去におこったことのように話しましたね。でもそれを将来おこることとしてお話ししてもよかったんですよ。私にとっては、どちらもそう大きなちがいはありません。」

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