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雑草を抜くという営みについて、五月の朝に僕が思うこと

 朝六時半、真新しい半透明のゴミ袋を手に、つっかけを履いて玄関から外へ出る。昨夜の雷雨が嘘のように晴れ上がり、澄んだ空気がひんやりと肌を刺して心地いい。
 前日の続きで、家の周囲の雑草を抜く作業を始める。
 最初は四日前、通りに面した生垣の下生えの草を抜き、落ち葉と共に掃き清めた後に、玄関へのアプローチを覆っていたドクダミを、跡形もなくきれいに引っこ抜いた。翌日は玄関から家の裏手にかけて砂利が敷き詰められた部分を制覇。雨の朝はパスして、昨日は生垣の内側の日陰で手ごわい奴ら(シダ類)を片付けた。
 今朝は、砂利が敷き詰められた、玄関とは反対側の幅の狭い敷地を進む。
 今は腰高近くまで育ったヒメジオンだかハルジオンだかが満開で、主にこれらを引っこ抜いていく。根元近くをつかめば意外とあっさり根こそぎ抜けるから楽ちんだ。
 厄介なのは、ニラみたいな細長い葉を何十本も伸ばし、その中から「ろくろっ首」のミニチュアみたいにひょろりと伸びて先っちょに蕾をつけた茎を持つ植物。手でむしると根元でちぎれてしまうので、そいつには小さな園芸器具を使う。鋭い切っ先を地面に挿し込み梃にして、葉と茎をまとめて引っ張ると、小さなラッキョウみたいな球根もろとも抜ける。このミニろくろっ首はまだ花が咲いていないので、こうして抜いてしまえば、しばらくは生えてこないだろう。
 一番背が高いのは黄色や紫の花をつけたアザミの類で、茎が固くて太いわりに中は空っぽで、根も深くなくて案外あっさりと抜ける。ただし園芸用の手袋をはめた上からでもギザギザの葉や茎が突き刺さるから要注意だ。

 そうしてハルジオンだかヒメジオンだかをはじめとする草が、何百という花もろとも、半透明のゴミ袋に投げ入れられ、やがてぎゅうぎゅうに押し詰められていく。僕は黙々と作業を続けるが、内心は少しざわついている。
 なぜなら、これはどこからどう見ても、他者の生命を断絶させる行為だからだ。
 雑草抜き――ガーデニングでは当たり前の作業だ。除草剤を使わず手作業するだけ良心的かもしれない。でも、抜き去られた名も無き、いや名も知らぬ草花たちは、明日の朝には袋ごと、「夕焼け小焼けの赤とんぼ」を奏でてやってくる小豆色のゴミ収集車に回収され、そのまま市役所のそばのゴミ処理施設で高温の炎に焼かれることになる。
 「明日は炉に投げ入れられる野の花」というフレーズが、僕の脳裏に浮かぶ。あれは聖書に出てくる一節で、そんな「野の花」でさえ神は美しく装わせてくれるのだから、人間は何を着るべきかなどと思い煩うことは無い、と教える言葉だ。でも…と僕は思う。ここにいるハルジオンだかヒメジオンだかを、いや、そんな「野の花」を、明日炉に投げ入れること自体を、神は良しとしているんだろうか?
 昔、なんとかというグループが歌ったヒット曲があった。僕らはみんな、花と同じ。それぞれ違う美しさを持つのだから、周りを気にせず、自分なりの美しさを磨けばいい、そんな内容だ。このハルジオンだかヒメジオンだかは、では、何のために咲いている? 最後に僕の手で葬り去られるためなのか? まったく同じ顔をして…何百も何千もの同じ色、同じ形の花をつけ、僕の家の敷地を勝手に占領しては、厄介者扱いされている。だいいち彼らには「世界にひとつだけの花」と言えるような個性があるのか? 
 僕の心のざわつきは、それだけでは終わらない。この、おそらくゴミ袋五~六杯分にはなるわが家の雑草も、いわば立派な植物だ。つまり緑の葉を使って光合成をして、二酸化炭素から酸素を作りだしている。二酸化炭素の排出量増加による気候変動の危機が叫ばれる中、うちの雑草たちだって、もしかしたら温暖化の防止に役立っているかもしれないではないか。
 いったい、僕が一日に吸う酸素の量と、この雑草たちが作り出す酸素の量は、あるいは僕が一日に吐き出す二酸化炭素の量と、この雑草たちが吸い込んでくれる二酸化炭素の量は、どれほど釣り合っているのだろう。僕には、どっちが多いのかさえ、そしてそれが何倍なのか何十倍なのか何百倍なのかさえ、見当もつかない。けれど、たしかに言えるのは、たとえわずかであったとしても、今日僕は植物を殺すこととゴミを増やすことで、確実に、しかも二重に、温暖化に貢献してしまっているということだ。

 「ミニろくろっ首」を道具を使って抜いている最中、ぬめぬめと蠢く茶色い物体が目に飛び込んでくる。ミミズだ。金属が当たったのか、弱弱しく体をくねらせる。悪かったね、と小声で謝りながらそいつを脇によけて僕は進むけれど、もはや彼には身を隠す場所がない。雑草を抜くときに心が痛むのは、こういうときだ。もちろん頻繁に姿を見せるダンゴムシや時折見かけるナメクジやトカゲなども、誰にも迷惑をかけずに草葉の陰でひっそりと暮らしていたのに、いきなりやってきた僕のような侵略者に住処を奪われて、戸惑いを隠せずにいる。僕は、ちっぽけだけれど着実に築かれつつあった彼らのささやかな生態系をも、一瞬で破壊しているのだ。
 どこかで誰かが盛大なくしゃみをする。七時を過ぎて、隣近所の雨戸が開かれていく。
 やがて僕は、他の植物に交じってタンポポが群生する部分に差し掛かる。タンポポは実はミニろくろっ首以上に手ごわい相手だ。かわいらしい名前と花の造形のわりに意外と根が深く、器具を使ってもなかなか根こそぎとはいかない。しかも花が終わって丸い綿毛がつき始めると、少しでも揺らすと種が地面に落ちる。これではまたすぐに芽を出してしまう。
 だから綿毛を揺らさないように用心深く、茎の途中からハサミで切り取って、細心の注意を払いながら、逆さまにしてゴミ袋に突っ込むのだ。種を残してはいけない。すべて「根絶やし」にしなければ意味が無い。そう、戦国時代の武将たちが、敵将を負かした暁には、幼い子どもといえども後胤を決して生かしておかなかったように。
 こうして僕の草抜きは、おそろしくサディスティックな様相を帯びてくる。根絶やしにしろ! 種は残すな! 実際に根こそぎ抜けたときには、脳が徐々に快感を覚えるようになる。特にドクダミなどは、引っ張ると少しだけ弾力をもって伸びるので、プチンと切れるとがっかりするけれど、ぷるんと根から抜けたときには、その感覚がなんとも好ましいのだ。けれども僕はいったい何が悲しくて、植物を相手にそんな歪んだ快感を得ようとしているのだろう?
 
 僕は今ここで、なぜ雑草を抜いているのか。今のところ、良い理由がひとつも見つからない。雑草を抜くのは人間として当たり前のこと、と言っていいのだろうか。あそこの家は草ぼうぼうでほったらかしている、と思われるのが恥ずかしいだけではないのか。
 いや、放っておいたら人間の背丈以上の草が茂ることもあるのだから、そうなったらいくらなんでも物騒だ。誰かが入り込んだり、何かが放り込まれても目につかない。雑草が生い茂る場所には、平気でゴミが不法投棄されるのが世の常だ。だからこうして、何ひとつ生産的ではなくむしろ破壊的ではあるけれど、何か月かに一度、草抜きという作業をするしかない。そうして、あらゆる生物や地球環境に対して罪悪感を抱きながらも、黙々と作業をすることになる。
 だいたい七~八メートル進んだあたりで、袋がひとついっぱいになる。どこかで誰かの目覚まし時計が鳴っている。七時半。そろそろ朝の散歩に出かける時間だ。僕はまだやり残した一坪ほどの面積を明日に取っておくことにして、ゴミ袋の口をしばる。

 その刹那、中に押し込んだはずのタンポポの綿毛が、圧縮され反発した空気と共に袋から飛び出て、そのままひらひらと地面に落ちる。それも一つ二つではなく、数十、数百の群れとなって…。一瞬のできごとを目の前に、僕は敗北感に打ちのめされる。細心の注意を払ったはずなのに。一時間の仕事の末の、この失態だ。
 けれども、今日進んできた短い砂利の通路を振り返れば、そこにはまだ何十本もの草の残骸が散らばり、細い根っこが見え隠れしている。完璧な草抜きではなかったということだ。
 あと数カ月もすれば、いや早ければ一週間後には、また小さな芽が顔を出し、再び元の雑草畑に戻るだろう。根こそぎ抜いたつもりでも取り切れていなかった根から、また新たな生命の息吹が生まれ、夏の陽射しを求めて生い茂ることだろう。それに加えて、初夏の薫風に乗って、あるいは梅雨時の雲に運ばれて、どこからともなく新たな種がやってきて、ここに着地するかもしれない。
 そうなのだ、僕は自分を植物たちの命を奪う残虐な征服者だと思い、その絶対的な強者の快感に酔い、あるいはそれを恥じ、彼らの感じているだろう痛みに同情した。けれどもそれはおそらく、僕の大いなる勘違いだったのだ。僕の薄っぺらいセンチメンタリズムなどは、まったく無価値なちっぽけなものだった。僕は勝ち、そして負けた。彼らは負け、そして勝った。いや、もはや勝ち負けですら、ないのだろう。むしろ取引と言うべきかもしれない。僕は草抜きをすることで近隣住民へのメンツを保つ。雑草たちは地表に出ている部分の大半を差し出すことで、根っこや種を守り、未来の命へとつなげたのだ。
 これからも僕は数カ月に一度、ゴミ袋を手に外へ出て、黙々と雑草を抜くだろう。もはやそれは儀式のようなものだ。夏には蚊よけのスプレーをかけ、汗ばむ首にタオルを巻き、冬には腰にカイロを貼り、春先には花粉よけのマスクをして、淡々と、この年に何度かの儀式に臨むのだ。
 もはや罪悪感など覚える必要はない。なんといっても僕の家の敷地に侵入してきて、我が物顔でこの世の春を謳歌してきたのは、雑草たちの方なのだ。僕には僕の家の敷地を自由にする権利がある。
 けれども同時に、わずかばかりとはいえ地球上の一定の面積を勝手に占領し、家を建て、自分のものだと宣言している僕という存在は、いったい何者なのだろう? かつて大地を闊歩していた、当時最強の生物だった恐竜たちは、土地を区分けして、自分のものだと所有権を主張しただろうか? そしてその間にも、小さく無力に見える草花たちは、自由気ままにところかまわず芽を出し、葉を広げ、花を開き、種を飛ばして、営々と命をつないできたのではなかったか?

 ぼんやりと考えている僕の右頬が、突然、熱を感じる。あたりがにわかに眩しい光を帯びる。昇り始めた太陽が、家と家の間の狭い空間に一瞬その姿を現し、真横から差し込んできたのだ。あと一日分残ったハルジオンだかヒメジオンだか、それにミニろくろっ首、タンポポ、シダ類、アザミ、ドクダミ、その他のあらゆる雑多な草たちは、朝の冷気から昼間の陽光への突然の交代劇に、驚くでもなく喜ぶでもなく、まるで知らん顔で静かにそこにいる。動じない強さ。やはり僕の負けだ。僕はそれを認めつつも、同時にそのことに安堵する。
 この家に住んでいるかぎり、僕の戦いはこれからも続くだろう。それは雑草たち相手の終わりなき戦いでもあり、同時に、僕の中で何度となく繰り返される、葛藤との戦いでもある。

(このお話は、実話にもとづくフィクションです。)

*1年前にFacebookに投稿したものです。わりと気に入っていたのでこちらに移しました。

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