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生涯の恋

「最後にひとつお願いがあるの。頭をなでてほしい。」

生涯に一度の最後のお願い。彼はあきれたように笑って私の髪をなでた。次の瞬間には彼の大きな手で抱きしめられていた。

「がんばって。」

私の背中に手の温もりだけを残して、彼はアメリカに行ってしまった。もう二度と会えない。

泣きながら新幹線に乗った。そこからは何も覚えていない。気がつくと京都のアパートのバスルームでひとり泣いていた。それからしばらくの間、心も身体も空っぽでどう過ごしたのか記憶がない。

一生に一度、生涯の恋。

彼と出会ったのは、タイのスコータイ遺跡。自転車で遺跡めぐりをしていた時、彼と出会った。私は大学3年生。国際協力を夢見てカンボジアに行く途中。彼はインドで日本語教師をした後、日本に戻る途中。たった一瞬、タイの遺跡で時間と居場所が交差した。

インド帰りの彼はとても自由でたくましく、一瞬で恋に落ちた。スコータイ遺跡を一緒に周るうちに心がほどけて、隣にいるだけで安心した。初めて会ったのになんだろう、この気持ち。この瞬間がずっと続けばいいのに。遺跡は時間が止まったかのように穏やかだった。

次の日もスコータイ遺跡で彼の姿を探した。バンコクでも彼を探した。もちろん見つかるはずもない。

名前だけでも聞いておけば良かった。帰国してからもずっと彼のことが忘れられなかった。話し方、言葉、まなざし、背中、彼の生き方。私は休学を選び、国際協力NGOで活動を始めた。彼のように生きたい。もう一度会いたい。その想いだけが私の支えだった。

1年が経ち、私はまた一歩夢に近づいた。やっぱりもう一度会いたい。彼と同時期にインドで日本語教師をしていた人がいたのを思い出し、その人をたどって名も知れぬインド帰りの青年を探し始めた。

「もしかしたら、彼のことかもしれない。」

その方がある青年の連絡先を教えてくれた。人違いだったらあきらめよう。そう決意してメッセージを送った。スコータイ遺跡で会ったこと。感謝していること。もし会えるのなら、もう一度会いたいと思っていること。

「僕も覚えています。」

彼から返事が来たとき、心が震えた。東京は桜が満開。すぐに新幹線に乗り、京都から東京に向かった。新宿駅南口は人の波。彼は私を見つけることはできるのだろうか。

ひとりの青年がまっすぐ私の方に歩いてくるのがわかった。時間が止まる。名前も知らずに1年を過ごし、夢にまで見たその人が目の前にいる。緊張と喜びで身体が熱をもち、言葉が出てこない。彼は久しぶりと言って笑った。

新宿御苑の満開の桜。風が吹くと花びらが舞った。帰国後、東京で1年を過ごした彼と京都でチャレンジを始めた私は、スコータイで出会った時と同じように未来のことを話した。

次の夏には彼のアメリカ行きが決まった。私はまだ学生。どんなに頑張っても永遠に手が届かない人。最後に彼を見送ってからもずっと忘れることはなかった。

らせん階段を上るように、広い世界を360度見渡しながら生きていきたいと言っていた彼の言葉がいつまでも私の人生に響き続ける。

彼と会えなくなってからも、数年に一度は連絡をした。インド帰りの夢見る青年はいつの間にか海外で大学教授になった。

彼と出会って18年経ち、ふと東京に向かった。新宿御苑の満開の桜。風で花びらが舞う。18年前の彼の姿が蘇り、涙が止まらなかった。

久々に連絡をするとまた短い返事が返ってくる。

「18年ぶりに日本に帰ります。春から京都です。」

こんなに時が経っても心が震える。結婚して子どももできたけれど、いつも心の奥には彼がいた。苦しい時、永遠の片思いがいつも私を勇気づけた。

何度も季節がめぐり、桜が咲く度に彼を思い出した。23歳だった私は41歳になった。もう一度、彼に会いたい。

高速バスに乗り、京都に向かう。彼がいる大学のキャンパスまで鴨川沿いを歩く。研究室のドアを開けるとインド帰りの青年が白髪交じりの大学教授になっていた。

チャイでも飲みに行きましょうとカフェまで散歩をする。見上げる横顔は出会った時と何も変わらない。言葉も在り方も自由奔放なまなざしさえも。あっという間に時は過ぎ、また別れの時が来る。沢山の人が行き交う大学の交差点。

「まりこさん、また遊びに来てください。」

そう言って、彼が手を伸ばした瞬間、私は彼をそっと抱きしめた。18年前の記憶が蘇る。彼は恥ずかしそうに笑った。

「今度会えたら、仕返しをしようとずっと思っていました。」

そう添えてお礼の連絡をすると、彼から短い返事が来る。

「感情を素直に身体で表現するのは素晴らしいこと。そこに恥じらいの念はありません。少なくとも僕には。」

やっぱりそうだ。いつどこで出会ってもきっと私はこの人を好きになるだろう。そして出会いから20年が経つ。偶然が重なり、私は今、彼と同じ大学のキャンパスで働いている。

この広い世界の中でたった一瞬、時間と居場所が交差して人は出会う。今もなお私の人生に響き続ける生涯の恋。そして永遠に季節はめぐり続ける。

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