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ネガティブな感情や傷が認められない社会

年末に受け止めたり、受け止めて自分の中で消化して言語化するしんどさについてnoteを書いた。

https://note.com/marikoish/n/n76a40fe3fa5f

そして一昨日くらいには、「怒り」が軽視されている社会についても書いた。そんな矢先、すごくつらいことが起きてしまった。
「〇〇活」について書くとかいってたけど(途中まで書いて下書きになったいる)一旦これは保留で。

私は去年放送されたドラマ「セクシー田中さん」にドはまりしていた。
そして、原作が「砂時計」と同じ芦原先生だと知って、放送終了後ではあるけど、単行本を全巻まとめ買いして原作がドラマ以上に良くて、今後を楽しみにしていた。しかし、それが叶わなくなってしまった。
ドラマの方の最終回放送時に脚本家がインスタに投稿したことがドラマ視聴者の中でぞわぞわも招き、そのことに対して原作者である芦原先生が事細かに丁寧にひとつひとつの言葉を選び、説明。
ドラマも漫画も両方単純に楽しんでいた私としては、複雑な思いではあったけど、漫画を読むと「あ、ここが省かれてしまったのか」とかドラマの方向性をラブコメ路線に持ってきたいんだろうなと制作側の意図が後半見えたりもしてたから、「各々が各々いきいきと過ごす、ウェルビーイングストーリー」と認識してた私もセクシー田中さんのことを「恋愛ドラマ」と括った
レビュー記事に「キィイ」となっていたし、芦原先生自身が書いたという最終回の脚本も賛否あったけど、原作は続いてるし、あれでよかったと思ってる。というか、原作あってのドラマ化なのなら、原作者の意向は尊重されるべきだし、そうじゃないならオリジナルドラマを作りなよ!とも思うし、
この騒動を何事もなかったかのように過ごしているテレビ局には、もう怒り通り越してあ然としている・・・・


そして、こうなったしまった社会にも少しまた希望を無くしてる。
いつになったら、「声」をあげた人の「声」を聞けるようになるんだろう。
いつになったら、「傷」をおった人の「傷」が認められて、癒えるようになるんだろう。
力あるものだけの「声」が取り上げられて、マジョリティはその大きい声を疑いもなく受け入れて、どんなに丁寧に伝えても弱き人の声は理解されず、
消されていく。
なんなんだろう、ほんと。まぁこれも「悲しい」、「苦しい」、「怒り」
だとかネガティブな感情には圧をかけて「人権」を無視して結果なんだろうなって。そもそも発信し続ける中で、この国の「人権」は終わってるなってすごく思うし、人権がそもそも教育されていない。
今回のようなことは、前からなかったことじゃなかっただろうし、こういうことがよしとされる社会をやめないと本当にやばいと思う。
気づかないと。「声」をあげ続けることも正直しんどい。
傷ついてる人を見て、「繊細だなぁ」って見てるだけじゃなくて、
どうやったら傷から立ち直れるか手を差し伸べる社会である方が
健全じゃないのかと思うのだけれど・・・・・

だから、ちゃんと傷をちゃんと「傷」だと自他ともに認識できて、それが
ちゃんと処置されて、「傷」を予防できる社会をつくっていかないと、忖度ばかりで自分の気持ちや声が蔑ろになる人権が軽視されたところに生き続けるってほんとにしんどい。

なので、性教育とかフェミニズムとかすごく大事だと思っていて。
私の声もまだまだ小さいと思うけど、希望を無くしながらも、諦めずにはいたい。






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