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わざと怒らせようとしてるのに「怒り」が軽視される社会

もう1週間前のことになりますが、ミヤネ屋見てた人いますかねー?
私はXで元明石市長の泉さんをフォローしているんですけど、
その泉さんが出演すると告知していたので、家にもいるし、暇だしと見てたんです。
もしかしたら、Xでもトレンド入りになったと思うのでXで知ってる!的な人もいると思うのですが・・・

まぁ最近話題のニュースのひとつである、「自民党派閥問題」。
ミヤネ屋放送直後どんどん派閥は解散していますが、
番組で泉さんと石原伸晃氏が派閥についてのディスカッションをしていたんですよね。
でまぁ、泉さんは普段からご自身のXや他のメディアでも「派閥はいらない」と声を上げてきてたわけなんですが、このディスカッションの内容も
ひどかったはひどかったんですけど、それよりも私が「違和感」を感じたのは、石原伸晃氏とミヤネ屋のMCである宮根氏が泉さんをわざと怒らそうと煽ってた図。
煽っては、泉さんの声は大きくなりつつも必死に冷静さを保って、
自分の意見を述べる(主に国民の生活は大変なのに的内容)
というのが映し出されて、それに対して二人が嘲笑ったり、「アンガーマネージメントが効いてますね」と小馬鹿にしている様子が本当に不快だった。

ただこのように真面目に述べている人に対してわざと怒らせたり、小馬鹿にすることは、テレビでも日常でもよくあることだと思う。
また怒らせるつもりじゃなかったのに相手が結果怒ってしまった時に、茶化しがち。

そう考えた時に社会全体として「怒り」という感情が軽視されてるんじゃないかなと感じる今日この頃。
もちろん怒って「他者」を傷つける行為はだめだけど、自分が「怒り」に
感じたことは自己理解として認識すべきだし、時には「怒り」をおもてに出すことも大事なんじゃないかなぁっと。
日々を過ごすなかで「正しく怒る」ということがわからなかったり、
感情よりも「秩序」が大事で、怒ることの不利益を考えてしまい、怒れないというループに多くの人はハマってるのではなかろうか。
そして秩序を優先してきた結果、「笑いながら怒る」というなんともちぐはぐなことになってるのかなーとミヤネ屋を見たあと知人と話したりすることでぼんやりと考えた。

そう考えると、私はたびたび「怒り」を表現する場があった。
たまたま行ってたカナダの中学校では、演技が必須科目になっていて、
そこでいろんな感情を学んで表現したし(演技はその後ハマったので高校に入っても選択したり、学校主催の演劇になんどか出た)、演技を通して自己表現だけでなくて、誰かになってみることで「他者」へがどう感じているのかという想像力に繋がった。もうひとつ「怒り」と言えば、ディベートが授業や寮対抗であったので「あえて反論してみる」、「否定されてみる」という経験をすることで「論理的に反論する術」を学んだと思う。
私は気持ちがこもってしまうディベータ―ではあったと思うんだけども笑

「怒り」は自分のペースも時に乱れるし、「他人に迷惑をかけない」という空気が蔓延されている世の中では軽視されがちだけど、自分が不快に感じたこととか怒りを感じたことを認識していかないと「自分」を見失うことになるし、傷ついたときにちゃんと声をあげられなくなっちゃう。

そう考えるとあえて怒る場所が必要なのだろうか?
物を壊せるカフェ?みたいなところがあるけど、そういう場所がどんどん増えたりして涙活的感じで「怒活」が生まれたりするのか?

この〇〇活についてもちょっと思うことがあったので、いずれnoteに書こうと思います。




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