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誰かの「あたりまえ」をただただ受容する力

こんにちは、フランス在住ライター/幼児教育者のMarikoです!今回は、日々の気付きというかエッセイのようなものを綴っています。

誰かの「あたりまえ」をただただ受容する力

先日、平日の夕方のこと、2歳の娘を連れて近所の公園へ行くと娘とちょうど同い年くらいの女の子がいた。毎日のように行く公園なので顔見知りの親子が多いのだけれど、この子は初めて見る顔だった。

この公園は大きくはないが一応ひと通りの遊具があり、その中にはおままごとができる小さなキッチンエリアがある。コンロ台に火の調整つまみが付いたとてもシンプルな作りなのだけど、そこは娘が公園へ来るたびに長時間を過ごすお気に入りの場所でもある。

しばらくするとそのキッチンエリアに先ほどの女の子がやってきた。こういう時、人見知りの娘はたいてい距離を取り相手の様子を観察する。一方その子は娘のそんなためらう様子もおかまなしに近づき「あなたも遊ぶ?」と話しかけてくれる。(積極的でいい。)こうして親子ともども、なんとなくその場を共有し始めた。

その子のお母さんはイタリア人。目に留まった時から、娘ちゃん(Aちゃんとしよう)とイタリア語で会話をしているのが耳に入った。話を聞くと、彼女の出身はローマ近郊。私と同じくものを書く仕事をしており、Aちゃんのお父さんはフランス人なのだという。

と、母親同士がポツポツとお互いのことを話していると、Aちゃんがキッチンでおままごとを始めた。そして何かを調理する動きをしながら、すぐさま「ピッツァ、パスタ!」。イタリア語を話していたので一語一句がわかる訳ではないが、そのくらいは聞き取れる。するとその後ろで、「なんていうクリシェ…」と顔を赤らめるお母さん。

私の「イタリアらしいなぁ」という心のつぶやきが漏れたかな、とどこか申し訳なさを感じ、咄嗟に「うちの娘もここでおままごとする時、いつも『ごはんと海苔』を用意してるよ!おもしろいね」と口をつく。ちょうどとなりで娘が少し太い木の枝をごはんに、木の葉を海苔に見立ておにぎりを作って遊んでいたところだった。思わず笑みがこぼれる母親ふたり。もちろん娘たちは私たちが何を笑っているのかはわからない。

私は、幼少期のこういうふとした体験ひとつひとつが、彼女たちの「無意識の世界」に染み込み吸収されていくことを知っている。それは彼女たちの人格の基盤となる海面下の世界であり、のちにさまざまな日常活動をしたり勉強をしたり、ひとつひとつの小さな選択をしたりしていく土台となるものだ。

イタリアンフレンチのAちゃんにとっては「ピザとパスタ」が日常食なのかもしれないが、ジャパニーズフレンチの娘にとってそれは「白いごはんと海苔」や味噌汁なのである。こうした、目の前のその子にとっての「あたりまえ」を「そうか」とただただだ受容するという体験。これから本格的に幼児期を過ごしていくこの子たちは、そんな体験を数えきれないほど重ねていき、そのひとつひとつのかけらが彼女たちの世界に、それこそあたりまえに吸収されていくのだろうなと、この夕暮れのやりとりから思いを馳せた。

お互いの違いをただただ受容すること、それは多文化多民族がこの地球という惑星で共生していくためにまず必要なことだと思う。性の異なり、宗教の異なり、身体的な特徴の異なり、感じ方の異なり、そういうものを全部ひっくるめて、相手という存在を受容すること。究極な話、皆がそれさえできれば世界は平和になると思う。

ひとくちに「フランス」といっても、都市であればあるほど実にさまざまな人種や民族から成り立っている。「多様性ネイティブなフランスの子どもたち」の記事でも触れたが、娘たちの世代は生まれた時からこの多様性のある世界にいるいわば「多様性ネイティブ」。彼女たちが大人になる時、「あたりまえ」の尺度はどれほど大きな変容を遂げているのだろう。それは今この子たちを育てる、私たちの手にかかっていると思ったりもする。

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