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「永遠の生命の世界」(大川隆法著)

いつも私の記事に目をとめてくださり、本当にありがとうございます!

私の記事では、大川隆法先生の累計3500回の法話、3100冊以上の著書の中から、おすすめの作品を紹介しています。

今日は3月11日。東日本大震災から13年目です。

生かされていることへの感謝を再確認する日でもありますね。

ということで、大川隆法先先生の著書「永遠の生命の世界」の抜粋をご紹介させていただきます。



四苦ーこの世が仮の世であることの証拠

人間の真実の生命は、有限のものではありません。

そして、この世の人生と思っているものは、実は、真実のものではなく、かりそめのものにすぎません。

この世の数十年の人生が真実のものでない証拠は、「生老病死」という言葉に象徴される「四苦」の存在にあります。

大川隆法先生曰く、この世が仮の世であり、私たちが永遠の生命を持っている存在である証拠の一つが、この世に四苦(生・老・病・死)があることだそうです。



「生」

なぜ、人は生まれる前に際して、苦しみのなかを通過してくるのでしょうか。

なぜ、母親のおなかのなかに宿り、長い長い時間、暗闇のなかで、じっと耐えているのでしょうか。

そして、なぜ、泣きながら生まれてくるのでしょうか。

本来の世界の自由自在さを忘れ、不自由な世界に生まれんとする苦しみは、「生」の苦しみです。

それは、「また一から出直さなければならない」という、手探りの人生、無明の人生の始まりでもあります。

私たちは、泣きながらこの世に生まれてきます。

一説には、この世に生まれてきた感動で泣いている、もしくは、これから大変な修行が待っていることを感じ取って泣いている、とも言われています。

泣きながら、恐る恐る生まれてきた私たちですが、20年、30年と生きていると、この世に愛着を覚え、自分の人生に執着するようになります。



「老」

そして、青春を謳歌し、人生の盛りを迎えると、やがて、「老」、老いが襲ってきます。

体の痛み、顔の皺、白髪、そして、何よりも、精神的に張りがなくなり、未来が不透明となり、夢がなくなっていきます。

過去を思い返しては、取り戻すことのできない青春の日の思い出に執着するようになります。

老いは男性にも女性にも厳しく迫ってきて、それから逃れようとしても、結局は追いつかれてしまいます。

誰しもが避けられない、「老い」。

人は若かりし青春時代を懐かしく思い、過去を思い返してはそれに執着することもあります。

しかし、懐かしがったところで、失われた若さや時間が戻ってくることはありません。

この無常感も、この世が仮の世であることを気づかせるために存在しているのかもしれません。



「病」

また、「病」、病の苦しみがあります。

人はみな、「五体満足で、健康に一生を全うしたい」と思うものですが、残念ながら、人生の過程において、病のときを得ます。

それは、同時に失意のときであり、「本来、肉体は自分自身のものではなく、仮のものである」ということを感じさせられるときでもあります。

「自分のものだ」と思っている肉体でさえ、自分のものではありません。

その証拠に、自分の自由にならないのです。

これは、特に病のときに象徴的に感じることです。

「健康になりたくても、なれない」、あるいは、「病になりたくなくても、なってしまう」、それが、肉体が借り物であることの証拠なのです。

人は、病の苦しみに冒される時があります。

おそらく、病気になりたくてなる人はいないと思います。

ただ、そんな時こそ、本来、肉体は自分自身のものではなく仮の姿である、と気づくチャンスを与えられているのだそうです。



「死」

さらに、「死」の苦しみです。

これは人間にとって最大の苦しみでしょう。

いまピンピンしている自分も必ず死を迎えます。

いまから百年前には、現在、生きている人のほとんどが、この地上には存在しませんでした。

また、いまから百年以上先には、いま生きている人は、おそらく、ほとんど存在しなくなっているでしょう。

このような不安のなかを生きていくのは大変なことです。

死の恐怖から逃れるために、この世のみに関心を持ち、享楽のなかを過ごしていても、やがて、老いという苦しみが鞭打ち、死が現実になります。

年を取るにつれて、ちょうど木の葉が落ちていくように、身の回りで次々と人が死んでいきます。

「死」はこの世に遺されたものにとっては、永遠の別れのように感じられます。

死こそが人生最大の苦しみである、と考える人も多いでしょう。

ただ、「死」に直面することが、一番「あの世」を感じられる瞬間でもあります。



「四苦」があるからこそ、人は真理を求める

こういう「生老病死」の四苦の苦しみを見るにつけ、「真実とは、いったい何であるのか。真理とは、いったい何であるのか」ということを問う哲学的衝動から自由でいられる人は、まれでしょう。

生老病死の四苦があるからこそ、私たちは「人は何のために生きているのか」を考えることになります。

苦しみをきっかけに、真理を探さざるを得ないのです。

そして、四苦に加えて、この世にはさらに幾つかの苦しみがあります。
順番に見て行きましょう。


「怨憎会苦」(おんぞうえく)

まず、「怨憎会苦」があります。

嫌な人、嫌いな人と出会う苦しみです。

「この人に会わなければ、自分は幸福だったのに」と思うような人と、どうしても出会わなければならない巡り合わせがあります。

それは、職場の人であったり、家族であったり、親族であったり、身近にいる人であったりします。

嫌いな人と出会う苦しみ。

避けがたく、ただただ苦しいですよね。

どうしてこんな苦難が存在するんだ、と思うことも多々あると思いますが、それらも全て、この世が仮の世であり、私たちが魂修行していることを気づかせるきっかけになっているのかもしれません。


「愛別離苦」(あいべつりく)

また、愛する人と別れる苦しみ、「愛別離苦」も必ずやってきます。

「この人とだけは別れたくない。離れたくない」という、友人、妻、夫、子供たちなどがいても、死は、無情にも、そういう人間関係を打ち砕き、彼が貝殻をさらっていくように、人を連れ去っていきます。

愛する者と別れる悲しみ。

これ、人生の中で一番辛い気がします。

どう頑張っても、別れの苦しみから逃れることができず、愛した分だけ苦しみます。

この無常感さえも、この世が仮の世であることの演出に過ぎないのかもしれません。


「求不得苦」(ぐふとっく)

さらに、「求不得苦」があります。

求めても得られない苦しみです。

これは万人が感じるものです。

誰もが、この世に生まれるときは、泣きながら生まれてきたのに、数十年の人生を生きていくうちに、この世が住みよくなり、この世にあるものを、「あれも、これも」と手に入れたくなります。

そして、いつしか、自分が執着だらけの人生を生きていることを感じます。

年を重ねるにつれ、求める気持ちも大きくなっていきます。

地位や名誉など、捨てたくないものも増えていきますが、これらもまた、あの世に持って還ることはできません。


「五陰盛苦」(ごおんじょうく)

「肉体を持って生きる」ということは、「五官煩悩が炎のように燃え盛りながら生きる」ということを意味します。

五陰盛苦には、食欲や性欲、睡眠欲など、肉体を持つことに伴う、さまざまな苦しみがあります。

肉体は、まるで自分のなかに動物を飼っているかのような、貪欲の苦しみをもたらします。

人は、燃え盛る五官煩悩の炎を消すことができず、それが暴れ馬のように暴れてしまい、魂が自分自身の主人公であることを忘れさせられてしまいます。

肉体を持つがゆえの苦しみってあるんですよね。

いけない、と分かっていても、ついつい本能のままに行動してしまう時もあります。

食欲、性欲、睡眠欲……それらを上手く統御できず、私たちは苦しみます。



この世が仮の世であることの証拠ー人生が苦しい

これが、数十年のうちに大部分の人が味わう、人生の苦悩です。

人は、こういう四苦八苦の人生を生きていますが、「人生はまさしく四苦八苦である」という事実を見つめることこそが、実はこの世が仮の世であり、真実の世界でないことを証明するのです。

真実の世界ではないからこそ、そのような苦しみが現れてくるのです。

真実の世界でないものに、こだわり、手に入れようとし、執着するからこそ、苦しいのです。

逆説的ですが、「人生が苦しければ苦しいほど、それはこの世が仮の世である、という証明にしかならない」そうです。

仮の世であるこの世で、本来、存在しないものを得ようとするから苦しい。

いつか手放さなければいけないものを、手放さずに執着するから苦しい。

真実の世界であるならば、そこには喜びが存在しており、一切の苦しみからは開放されている。

そういうことになりそうです。



あの世こそが真実の世界

生まれてくる前の世界に、そして、死んでのちに還る世界に、思いを馳せてみてください。

そこに真実の人生があったのです。

この世というものは仮の世です。

永遠の生命を生きている者同士が、同時代に、この物質世界において、肉体に宿り、人間的生活を送ることによって、共に切磋琢磨しているのです。

私たちが盲目の人生を生きているからこそ、天上界からも天使や菩薩と言われる高級霊が地上に降り立ち、人々を救済している仕事をしていると言われています。

このあたりの事情は、大川隆法著『永遠の法』で詳しく明かされています。



魂を鍛え、光らせるために今世がある

人は必ず死を迎えます。

それがいつであるかは分かりません。

きょうか、あすか、あるいは一年後か、十年後か、二十年後か、それは分かりませんが、死は百パーセント必ずやってきます。

「その後に来る人生こそが真実の人生である」ということを、また、「今世というものは、その後の、真実の人生を生ききるためにこそ、意味を持っている。魂を鍛え、光らせるために、大いなる意味を持っている」ということを『永遠の法』は示しているのです。

今世の後に来る人生こそが真実の人生。

少しイメージしづらいかもしれませんが、この世を去った後の世界こそが、私たちの本来の世界である、という意味を込めて、大川隆法先生は、あの世を「実在界」と呼ばれています。



「永遠の生命の世界」を伝えてほしい

どうか、一人でも多くの人に、永遠の生命の世界について語ってください。

それは真実であるがゆえに、みなさんは勇気を持たねばなりません。

真実の側に立っている者は、真なる勇気を持たねばなりません。

真実は強く、敗れないものです。

断固として、それを押し広げていくことです。

永遠の生命の世界を確信したのであれば、私たちは勇気を持って、その存在を伝えていかねばならないと思います。

なぜなら、それは「真理」であり、命を懸けて伝えるに値する存在だからです。

私も強い心でもって、永遠の生命について学び、伝えていこうと思います。




今回は、永遠の生命の世界についての基本的な考え方をお伝えさせていただきました。

人はいつ死ぬか分からない存在です。

そうであるからこそ、こうした真理を心に留めていただき、後悔のないよう、日々を歩んで行っていただきたいと思います。


最後までご覧くださり、誠にありがとうざいました。




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