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■笑顔の居場所を探していたのは、ゆるされたかったから


💖熱量高めで
あなたを真反対の世界へお連れする💖

お手伝い心理カウンセラー・
マリチャンヌです。

わたしは現在、
心理カウンセリングを通して
心のボタンの掛け違いをゆるめてほぐし


未来を思い出すお手伝いという
お仕事をさせていただいています。


「集合写真撮るよ〜〜」


イベント後、ワークショップ中
いろんなところで
この場面に出会うようになりました。



カメラが向くと
体と顔が固まります。


私は知っています。


「正解を探そうとしているのです」


それは、その場で
どう振る舞えばいいのかの目星はつくけど

どうしても出来ないことでもありました。


私は、十代の頃から

運動会のカメラやビデオに夢中の
親御さんを見ながら


どうして、レンズを通して
記録することに夢中になるのだろう?



どうして、その瞬間を自分の目で
ハートで焼き付けたい、と思わないのだろう?


なぜ、形を残すことに、そんなに夢中になるのだろう?


自分自身が捉えた景色の一瞬は、
もう二度と還らないというのに・・


・・・そんな風に思っていました。



同様に、カメラと笑顔、というワンセットに
解せない気持ちもありました。


今日は
「笑顔の居場所を探していたのは、ゆるされたかったから」
について書いてみようと思います。

よろしくお付き合いください。



わたしは不登校以降、何十年もの間

わたしの全てを受け入れてくれない
他人という存在が、全員嫌いでした。



しかし「わたしは悪くない」
「自分はいい人!と思い込みたかった」
面が強くあり、


心の中で毒づいていても

300%のニセ笑顔で
平等にひとに接していました。



顔をそらした瞬間、般若のような顔に
なっている自分のことも
二十歳時点で自覚がありました。


30代後半になり、
生きづらさの強制終了がなんども起き

次第にその生き方に
少しずつ疑問が出てくるようになりました。


毎日毎日
「なぜ人は生きるのか?」ばかり
考えるようになり


納得できる答えが出ない・・
かなりキツい日々を送っていました。



どうせ死ぬのに、なんで頑張ったり
笑ったり着飾ったりするんだろう?


生きるということに対し
無気力の拍車がピークだったのではないでしょうか?


3年くらいグルグルして、

ある日


「生まれたんだから、そこは動かせない。
寿命来るまで、生きればいいんだ」


ハラオチがやっと来て


限りある命なら
やりたくないのにやっていることは
もうやめよう、と


わたしはまず、
愛想笑いを捨てることにしました。


顔の下半分をほぼ動かすことがなくなり

若いと言われて有頂天だった日々は終わり、
一気に年相応の顔になりました。



それくらい、本当は
笑いたいようなことが、日常には
なかったんですね。


さらに時が経ち、


心理講座の塾を卒業してから

集合写真を撮るという場面に
出くわすことが増えました。


あまりにもひどい写りで
心がそのまま写っているのだなぁと

そのことの方が、心底悲しくなりました。



以前

笑顔という形を作りながら
嘘でも笑っていれば

症状を持つ方の
免疫力が上がっていた!という
データの話を聞いたことがあります。



お茶やお花同様、形からやっていくことで
やりながら気づくこともあるかも?


怒りを封じ込める目的ではなく
笑顔で写ることを通して
心がほぐれていくといいな・・・


『笑ってみるか・・』


わたしは、それまで興味が持てなかった
「自撮り」を必死でやるようになりました。

やってみると
自分が思い込んでいる以上に
感情が表に出やすいことも

写真から改めてよくわかりました。



それでも、奇跡の一枚が撮れると
それはそれで、とても嬉しく

楽しみとともに
写真嫌いは少しずつ減っていきました。



しかし集合写真になると
途端に
『なんのために!?!』で頭がいっぱいになります。


とっさに

「写真が苦手な人は、好きな食べ物を
思い浮かべましょう」

「目から力を抜いて、エロい目にして、
口角をあげましょう」



ネットを検索した時出ていた、
正しい笑顔の作りの答えを探す自分がいます。


その場を乗りきらねば・・皆に迷惑がかかる!
なんとかしなきゃ!の癖が出ますが
硬直したまま。


次第に、
ああ・・ひとかけらも楽しくない

そして、ここにいてはいけない

逃げたい・・

自己嫌悪・・同じループはなんでも続きました。


ある日私は家のパソコンカメラの
レンズをじっと見ていたら

急に、そのもっと奥にある
自分の本心のほうを知りたいと思いました。



なんのために?・・の先にあるものです。


ほどなく出てきた本音は、
『他人に歩調を合わせたくない!
誰にも自分を売り渡さない』・・という、

少し意外なものでした。



笑わない私は、抵抗してたんです。



必ずしも、カメラを構えている人に対して
ではありません。


「一般」「常識」「世論」「多数」
「同調圧力」を
レンズに重ねて見ていたようです。



ひとに近づくのが怖い・・・・・
他人は怖いもの


誰かに受け入れられないと
生きていけないという
子供の頃に、刷り込んだ思い込み。


とっさの集合写真の苦手意識は
拒否されたら居場所がない
誰かに安心をもらいたい、という

古い価値観が出てきていたんですね。


楽しいことは大好きです。



夢中の中(なか)にいる時のわたしは
自分の表情を知りません。


本当のことを言えば
今でもそれでいいと思っています。


誰かに見せるため、理解させるために

生きているわけではないですしね。



願わくば・・晴れやかな気持ちの時なら
それが写っているに越したことはないですが


時々宿る悲しい気持ちや

失敗したり、あてがハズレて
しょんぼりしているときこそ



少しでも寄り添ってやれる自分が
わたしの中にあることの方が大事。



それで充分!



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