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amazarashi Live Tour 2020 BOYCOTT @LINE CUBE SHIBUYA 11/17 ライブレポート

2020年春から開催予定だったamazarashiのBOYCOTTツアーが今年の夏から開催された。コロナ禍による延期に次ぐ延期、緊急事態宣言等もあり再延期しないのかという声、行く選択をした人行かない選択をした人と様々な葛藤が渦巻く中空席が目立ったツアー前半戦。少しずつ人が戻ってきた後半戦。amazarashiにとっても、観客にとっても複雑な思いを抱えまさに“受諾と拒絶”といえるツアーであったと思う。私が足を運んだのは、東京追加公演2日目と青森ファイナルの2回。

前回のツアーから2年強。
そこには進化しながらも人の心へ今一歩踏み込んだ温かいamazarashiがいた。その様子を楽曲の感想を交えてレポートしたい。

WEBで公開されているライブレポート
①東京ガーデンシアター@skream! 蜂須賀ちなみさん

②LINE CUBE SHIBUYA@SPICE(ライターさんはSkream!と同じ)

③LINE CUBE SHIBUYA@OK Music 田山雄二さん

セットリスト

セトリは全部で4パターン。全体を通しては、真っ白な世界⇔初雪、ライフイズビューティフル⇔千年幸福論が差し替わり、名古屋からとどめを刺して⇔ヒガシズム、アルカホール⇔少年少女が差し替わったようだ。私が参加したのは最後2回のため、残念ながらとどめを刺してとアルカホールを聴くことはかなわなかった。

僕と逃げよう!と手を差し伸べられたかったし、アアアアルカホールの(エロくて)美しいファルセットが聴きたかった。無念である。ただコロナの影響もあり、行けなかった東京2公演のセトリポストカードとバッチをもらうことが出来た。

LINE CUBE SHIBUYA

渋谷公会堂が建て変わり新しくなった綺麗な施設だ。各階LINEのキャラクターが迎えてくれる。個人的にamazarashiと渋谷(公会堂含め)には繋がりを強く感じている。かつて秋田ひろむが東京で活動していた場所でもあり、amazarashiとしても初のホールは渋谷公会堂だった。今はなきAX、NHKホールでの公演は感慨深いものがあったと思うし、私自身の生活圏が近いこともあって渋谷でライブをやってくれると「amazarashiが自分の住む街にやってきた」感覚がして、とても嬉しい。

開演前と紗幕

開場時間を少し過ぎた頃、会場前には沢山のファンが集まっていた。ライブに行くということ自体が久しぶりで期待と不安の中席につく。今回紗幕は前方後方の二面でなく、ステージの四方を囲むスタイルだ。虚無病@幕張で起用された檻のような箱庭は映像演出面で課題が残ったが、武道館で大きく進化し国内外から表彰を受けた。そして先日行われたオンラインLIVE雨天決行ではビジョン三面使用で中にamazarashiが入るスタイル。

今回は紗幕でステージを囲むことにより文字を流したり立体的な映像美を実現した。この日はかなり上手で端が少し見切れるもののメンバーの表情もしっかり見える位置。お馴染みのSEが流れ久しぶりの感覚に胸が躍る。

突如放たれる拒絶の言葉

本編が始まる前、照明がついたまま突然秋田の声が響き、紗幕には秋田の直筆のような文字が浮かぶ。セットリストは事前に見ていたものの演出については何も見ていなかったため戸惑う。会場はまだ入場する人が続く。非日常と日常の挟間でただ秋田の淡々とした声が響き渡る。あえて暗くしないまま始めることが、今回amazarashiが表現する観客との“境界線”なのかもしれない。

心臓が脈打つような低い音が響く中、BOYCOTTの名にふさわしく、私は私の〇〇ではないと様々な拒絶の言葉を紡ぐ。秋田の遊び心か何だそれ?というものも混じるが(夕方5時とか)ランダムなようである程度ジャンルのまとまりを感じた。法律から始まり前半は他者から見た自分を表すもの、成果・人生設計・統治者や労働者、奴隷、アクセサリー等が続く。やがて自分の分類や環境である、国籍や人種、友達の数、学校、勤め先等が続く。中盤、はけ口、傷跡、思い出だけの声色がどこか寂しくてぐっときた。

私は私の受諾ではない
から売上枚数、再生回数、サブスクリプション、サムネイルといった音楽環境が、生まれ故郷からトラウマ、憂いの数々等徐々に一般論から秋田の内面へ踏み込んでいく。終盤、画像は乱れ、言葉は怒りにも似た叫びとなって響く。愛想笑い、焦り、失意。やがて暗転し屈辱、自虐、名残惜しさ等自分の足を絡め取る感情を振り払うように否定していく。

私は私の私であり、誰かの私ではない。
私は私の夢であり、誰かの夢ではない。

自分に向けて歌った歌が人に届き、外に向かう歌が増えても自身の内面と向き合う姿勢は変わらない。同時に代弁者ではないことも歌い続けてきた秋田ひろむ。復活した豊川真奈美と共にステージが真っ青に染まりメンバーが一直線に浮かび上がる。

拒否オロジー

イントロのギターが流れ秋田の“応答せよ・・応答せよ”という声が響く。CD音源では淡々としているが、高く遠くに呼びかけるように、間をおき低く自分自身へ言い聞かせるように。この温度こそがライブの醍醐味だろう。音源では味わえない質感だ。未来になれなかったあの夜から地続きの色々あった色々をつまびらかにしながら、矢継ぎ早にポエトリーを紡ぎ開演の狼煙を上げる。

檻をけ破れ・・・・服役囚よ!!!

言葉を恐れず押し黙ることなく今一歩前へと背中を押すフロントマン秋田ひろむ。そこにメンバーが一丸となり音を重ね1つにしていく。

BOYCOTT TOUR2021 東京LINE CUBE SHIBUYA
青森から来ました・・amazarashiです!!

お帰り!

ヒガシズム

シンバルが刻まれ、ステージが真っ赤に染まる。思い出の景色のように青森の風景と万華鏡のような光がきらめく。客席に差し込むライトが美しい。ベースラインが立ち上がり盛り上がる一曲。とどめを刺しても聴きたかったが、夕立旅立ちと呼応するように置かれたヒガシズムはいずれ別れが来たとしても、きっとまた会えることを強く訴えかける。

激しいビートを刻みながら緩急豊かな秋田の声と、冒頭で拒絶したレゾンデートルの解として実存をうたう。赤やオレンジの印象が強い楽曲だが、後半秋の砂浜~では青く染まり、歌詞が縦書きになる所が日記のようで印象的だ。サビのヒューマニズムで秋田はしゃがみ込み、屈伸するように飛び跳ねる。今回とにかくよく動き運動量が多い。井手上誠(Gt)が荒ぶるのは通常運転だが、中村武文(Ba)と秋田ひろむの3人囃子がよく踊るのも見所だろう。笑。

境界線

アニメ86の第二クールOP曲としてリリースされたタイアップ曲。YouTubeではLIVE映像が公開されている。映像演出や紗幕内のロックバンドamazarashiを味わえるのでぜひ見てもらいたい。冒頭のキャラクターやKeepOutの画像以外は境界線の1本線を引きながら文字が浮かび上がるシンプルな演出。新曲の歌詞を最大限に伝えようとしたのだろう。照明が青、オレンジ、赤と場面に応じて切り替わり美しい。

秋田の動きも激しめで時折帽子をぎゅっと押える場面も垣間見える。橋谷田真の繊細なシンバルを刻む音と強く突き抜けるようなドラミングはやはりamazarashiのサウンドの大きな支えであることを感じさせる。

人生は岐路の連続だ。私たちは小さなことからこれから人生を左右するものまで様々な場面で選択を迫られる。ここにもまた一つの受諾と拒絶が存在するだろう。

「向こうは怖い」とでかい声がして
残響が人を刺した
善良を粗暴へ容易く変えるその一声は
紛れない正義だ

中盤のフレーズが胸に残る。自分の正義が他人にとっての正義とは限らない。よかれと思ってした事、そんなつもりはなかった、顔の見えない言葉の暴力が蔓延るこのSNS社会を彷彿とさせる。境界線を俯瞰しながらあるいは当事者になりながらその先で信じたいもの、かすかに灯る優しい希望。amazarashiの言葉はいつもどこか温かい。

“存在意義はいつだって自分以外”
自分の中に声は響くが選択する勇気を持てない。
君の声が届いてやっと心に灯った希望の光。
それが2回続いた後、自分自身の中の声を、僕が許せる今日の僕を選ぶ。きっと君が希望を与えてくれたからこそ出来た選択だ。

ラストで“存在価値は自分の中”、と内に希望を見出す所がなんともamazarashiらしい。

秋田はアウトロで激しさを増す音を楽しむかのように体を揺らし上手下手に目線を投げ、熱のなかでフィニッシュ。ありがとうございます!と声をあげた。

ゆったりとした間、一筋の光が秋田を照らす。

帰ってこいよ 前口上

僕らの日々は壊れては再生を繰り返し・・
前口上を紡ぐ。
否応なく訪れる終わりについて
静かに語られていく。
何でもない1日、ひどかった1年、
ようやく始まったライブも終わりがある。
こんな時代だから守らなければならないこと、
僕らが果たすべき拒絶。
そして何度か繰り返されるエンディングという言葉が心に残る。エンディングに別れの歌を歌うための始まり。やがて言葉は青森の風景を映し出す。

もう駄目だというとき
僕らの遠い始まりが、終わった日々が、
祭り囃子が、
雪の静寂に紛れて聴こえる・・

終盤、このような事を言っていた気がするのだが、前口上で涙腺が壊れたのは初めてかもしれない。故郷への慕情とでも言ったらいいのだろうか。決して嫌いではなかった地元や出会った人々。傷と共に置いて生きてきた自分の人生が、楽しかった神社のお祭りが目の前に風景として浮かびあがり、涙で視界が歪む。生きるために必要な選択だった。後悔はしていない。

それでも時を経て過去の大部分を受け入れ大人になったからこそ胸が痛むのだ。繋がることを選んでいれば、 “再生”の道もあったのではないかと。

帰ってこいよ

豊川のピアノにシンバルの乾いた音が絡む。
Lyric Videoが公開されているが、教室や海など似たような演出を採用しながら青森の景色が映し出される。四面がうまく使われており電車の車窓と風景が浮かぶことで、海やトンネル、シャッター街などamazarashiと共に青森を旅しているかのような雰囲気だ。歌詞の影響もあり、秋田の地元、横浜町の景色が強く思い起こされる1曲。

ステージは優しい青の光に包まれ比較的明るいせいか、奥にしゃがんで控えるローディーさんがくっきり見えてメンバーが一人増えたような景色にちょっと笑ってしまった。切ないメロディながらサビは激しさを持つアレンジ。

静寂に残る秋田の声の余韻の美しさに魅了された次の瞬間には、爆発的な熱量に圧倒される。サビでは秋田がギターネックを高く持ち上げ下に振り下ろし熱のこもった演奏を届ける。ドラムが音の底をしっかり支え、その上にエレキギターが高音から細く艶やかなラインを描く。音源とはまた違った魅力で耳が楽しい。

信頼出来る人が傍にいるならいい 
愛する人ができたなら尚更いい
孤独が悪い訳じゃない ただ人は脆いものだから
すがるものは多い方がいい
笑って会えるならそれでいい 
偉くならなくたってそれでいい
ビルの谷間勇ましく歩く君が 
陽に照らされた姿を思うのだ
忙しくしてんならしょうがないか 
納得出来るまで好きにしろ

孤独と戦ってきたであろう秋田の口からこんな言葉を紡がれたら涙が止まらなくなってしまう。
もはや母の愛だよ。ひろむママ。笑

人は少なからず地元や実家、あるいは愛する人の待つ家へ胸を張って帰りたいという思いがあるのではないだろか。その場所がどこであれその人が取り巻く環境で皆必死に生きている。夢や目標が叶うこともあれば破れることもある。それでも人生は続くから生きていかなくてはいけない。楽しくて笑うことも愛想笑いすることも傷ついて泣くことも苦しすぎて心を亡くしてしまいそうになることもあるだろう。

決して気軽に帰れなくなった今だからこそ、地方都市青森で暮らし歌を届けるamazarashiだからこそ、“帰ってこいよ”の言葉が一層切なく響く。最後のMCで秋田が語るように、変わらず好きでいなくてもいい、いつでもわいたちの元へ帰っておいでよと言ってくれているようで、ただただ歌の優しさに包まれた時間だった。

真っ白な世界

帰ってこいよは過去から今に繋がるamazarashiらしい楽曲だが、そこから繋がるのは原点の風景、真っ白な世界。照明は青と白を基調とし、外に向かって白い光が放たれ紗幕には雪が舞い落ちる。静かにピアノを奏でる豊川にだけ光を落とす様と優しいピアノの音が美しい。冒頭はあまざらしに戻り秋田と豊川だけの世界、徐々にバンドサウンドが折り重なる。

紗幕は窓越しに降りしきる雪を見ているようで窓をこすって雪を拭うシーンに胸をくすぐられる。サビでは文字が雪の結晶となり下に落ち降り積もっていった。激しいギターロックのamazarashiもかっこいいが、バラードは楽曲と言葉、何より秋田の歌唱力の高さと声の美しさが際立つ。苦しみも悲しみも真っ白な雪に包まれる、再生の時間。日々の小さな傷に摩耗した心が癒やされていく。

少年少女

境界線にリマスターとして収録されたこれも初期曲、MVの公開も記憶に新しい。(方向性には一言もの申したいのでリンクは貼らない..笑)秋田の歌声は昔も今も素晴らしいが、最近は感情表現がより豊かになってきた。ライブではそれが一層顕著だ。紗幕にはカタカナが落ちてくる映像が映し出される。

彼女はきっともう戻らない・・冒頭の語りで、秋田が一瞬言葉に詰まったが(きっとともうのどっちが先か一瞬迷ったような)優しい声が会場に響き渡る。照明がステージ内外に放たれ、カラフルに染まる。真っ白な世界、少年少女は初期曲であるゆえか、あまざらしとして秋田と豊川が前に立ち、他のメンバーは優しく音を支えるアレンジになっている。サビにかけて秋田は腕まくりをしてアコギをかき鳴らし、絶唱に近い歌声が会場を包む。それに呼応するように豊川のコーラスとピアノも美しい。

終盤の思い出なんて消えてしまえ!!の所だったろうか。白い光から青に照明が切り替わり寂しさを増幅させていた。

水槽

これは後悔の話・・と前口上から連なるようにして曲入り。受諾と拒絶、数年後大きな変化になる、新町通り(青森駅前の商店街)、マスクをした家族写真のような短いフレーズが並ぶ。

歌詞に“清書された一日を目でなぞる様にあくびを噛み殺しもしない”とあるように、水槽前半はまさに受諾の人生が描かれる。そしてエアーポンプを切り、水槽の脳のような状態を拒絶、“退屈以外”を知る事で“退屈”を知る。それでもそこで生きるのか、外に出て行くのか自分の目で見て触れて選択しろ、思考することを止めるな、あれが世界の果てだ!!と投げかける。前口上を入れたことで水槽がBOYCOTTの空気を纏い、抒情死へと繋げていく。

演出の仕方は以前と変わらず水槽らしいスカイブルーに水泡が立ち上る映像に歌詞がフレーズごとに切り替わるスタイル。ポエトリーリーディングとして決して長くはない一曲。だが言葉一つひとつに凝縮した熱量をぶつける秋田、フレーズ間の余韻、アウトロにかけてのバンド演奏、どれをとっても激しさに胸を掴まれる。ギターを弾くというよりもはや叩くように渾身の力を込め、ステージは水槽の泡の中へ溶けていった。

抒情死

水に溶けたステージは緑に染まり、井手上誠のギターが唸るイントロから映像は歌詞の冒頭と同じく東京湾に浮遊する船上からの景色。青森の青い海は懐かしさや悲しみが溶けているように思えるが、それとは違う汚れや歪み、しかし同時に人との繋がりが希薄でも生きられ様々な感情を飲み込むような東京湾。

文字がゆらめき画面いっぱいに広がり回転し拒絶で大きな×が表示されたりと、これぞamazarashiと言わんばかりにリリックの作り込みが素晴らしい。水槽のアウトロからの熱量を抱えたまま冒頭は淡々と、あれはなんだ?から徐々に熱を帯びサビにかけて大きな盛り上がりを見せる。これはボイコットの主題歌とも言える、拒絶途絶の歌なのだと強く主張する。井手上誠とシンクロしながらのツインギターは圧巻である。また迫力あるドラムは心臓に響き体の中で音が弾けるようだった。終盤秋田が豊川の方にちらっと目線を送っていたのもよかった。

何が善で何が悪か 白と黒分かり合えず 
いがみ合って
灰色が割って入って お互いを認め合うべきだと 
懐から取り出す 共感を見て

この灰色を表現する辺りがリアルでさすが秋田ひろむといった所だろうか。バランス力や譲り合い、平等等と言いながらこの灰色がかなり曲者でひっかき回すことも多い。無理な共感もまたひとつの刃で分断の引き金となる。

声の大きいもの、強いものに抗い時に流され現代社会を浮遊するようにたゆたいながら、それでも自分の輪郭を失わずなんとか生きたい。

生きたい。生きたいのに、徐々に蝕まれる暮らし

マスクチルドレン

抒情死からの繋がりが秀逸である。今の社会情勢においてまさにといえるような表題だが、実際はコロナで騒がれる一年程前に歌詞が出来ている。秋田が東京でバンド活動していた頃を思わせる、本音や心を隠すという意味でのマスクとして描かれたはずの歌詞。時を経てマスクを外して自由に出歩くことも難しい、思ったことを口にしづらい現代の閉塞感をあぶり出す。

紗幕にはマスクをしてライブを眺める観客や外を歩く人々が映し出され、歌詞は白いマスクに光りで抜かれるように表示されていた。抒情死の熱量からは一変、静かに独り言のように言葉を重ねる。サビは語尾を伸ばす部分が多いせいか秋田の歌唱力の高さが際立つ。ドラムの橋谷田真はそんな歌声を噛みしめるように(あるいは後半にかけての手数の多さのしんどさか?笑)天を仰ぎながら繊細かつパワフルに音を刻む様が印象的だった。

馬鹿騒ぎはもう終わり

チューニングの音が聞こえる中、ゆったりとした間を置いて秋田のアコギに豊川のピアノが重なる。雨天決行ではコロナで大混乱に陥る日本や世界を映し出していたが、映像は歌詞に即したものに。紗幕にはまさに馬鹿騒ぎのあとといった風景の灰皿やゴミで散らかった部屋が映し出される。コンドームなど歌詞に合わせた物がクローズアップされるような作りだ。歌詞は縦書きで文字がぼやけていたが、紗幕には月だけが映るシーンもあり、寂しさを感じさせてくれた。

映像や文字を歪ませる手法は、馬鹿騒ぎのあと、重い体を引きずりながら夢うつつにまどろむような雰囲気が伝わってくる。終盤ベースの中村武文とうなずき合いながら音を重ねる秋田の姿がどこか見る者をほっとさせ、“それぞれの人生に戻るの”で照明が青から赤に切り替わる瞬間、まどろみから目が覚める。豊川のオクターブ上の美しいコーラスがスイッチとなり現実に引き戻されるような感覚だ。

映像の情報量の多さに反比例するように演奏はサビやアウトロの熱はあるもののシンプルで、一つの短編小説のような味わい深い作品。ラストはあまざらしに戻り秋田と豊川の演奏だけが優しく会場を包んでいた。

世界の解像度 前口上 殺人事件…?

秋田の軽い咳払いの後、白い光に照らされて前口上を優しく、そして徐々に熱く叫ぶように紡ぎそのまま世界の解像度へ。とてもかっこいい前口上だが途中からバスドラやエレキが入り、所々しか聞き取れない。

そして我に返り自分の人生に立ち返る
今日も混んでる地下鉄
もてあました時間に悲観が居座り
一つよりかは二つのまなざし
生きるか死ぬか
今日を限りに~放火魔
移ろい~足りなかった君の死体!(え?)

デート帰りに混雑した地下鉄で放火魔に遭遇して
彼女が死んだ?君の死体→視点だとすると、
君の視点が僕に足りずに自分が逃げ遅れた?
歌詞を見ると命からがら、生き別れ、骸とか出てくるからどっちかは死んでそうだが正解やいかに。そのうち秋田日記にでも書いていただけることを期待したい。

世界の解像度

映像は雨天決行をベースとして多少アレンジを加えたものだろうか。世界の解像度と紗幕に映し出されるが、解像度の低さが目につく。地球の画像も出てくるが同じく解像度が低い。

見ない振り聞えない振りを続けることは、きっと自分を守るためだったろう。たとえ世界の解像度が下がってしまったとしても、それが孤独の中で戦う精一杯だったかもしれない。そして今、amazarashiの楽曲がもう一歩外へ向かう。君と手を取り合う。

もう今更だよ 善か悪とか それより繋ぎ直すんだ
断線したライト 夜は明かりがいる 何はともあれ
君は君だけの場所で 目を閉じないで見ていて
個々の視点、再縫合 新しい世界の解像度

それは後半セトリから外されたとどめを刺してで“僕と逃げよう”と言ったように。帰ってこいよで“愛する人が出来たなら尚更いい”“すがるものは多い方がいい”と言ったように。いわゆる他者との繋がりに聞えるが、秋田が描くのは自分と他者を別の個人と捉えた上で、それぞれがそれぞれの場所で生き、手を取り合う景色だ。

生と死を生きて 日々の喜びと音楽を傍らに
宇宙の果てから君の細胞 繋ぐ直線に僕の骸
泣きながら手を取った もう終わったあなたの手
まだ終わらない僕の手 これから始まる君の手

生と死を繰り返し、繋ぎ、未来を描く。

会いたかったと言いに来た 
句点じゃなくてここは読点
その痛みや悔恨も 繋げば世界の解像度

これを聴けただけでライブに来てよかったと思った瞬間。未来になれなかったあの夜にで描かれたように、秋田の轍は誰かにとっての希望となり、amazarashiが歌い続けてくれれば、今回来られなかった人もまたいつかを思い描き、足を運べる日がきっと来る。そんな希望の歌。

ライブ映えという意味ではこの日一番と言っていいだろう。熱が血しぶきを上げるかのように全力を音に注ぐ。秋田は終盤体を縮こめるようにしゃがみ込み、飛びはねて後ろにいき、度々視界から消えていた。笑。

そんな僕と君の視点を合わせた世界の解像度。その熱を持ったままアウトロで繋がり、待ち受けるは秋田の魂が言葉に詰まった、独白。

独白

武道館で新言語秩序の物語最終章として描かれた独白。その瞬間のための物語だったかと思わせる程、その世界を体現していたにもかかわらず、思いのほか汎用性が高く今のamazarashiの代名詞とも言うようにライブ、フェスでよく歌われる。それは秋田自身が言葉と向き合い、気持ちを言葉にすることの大切さを訴え続けてきたからこそ強い説得力を持つのだろう。

秋田は曲が進むごとに興奮した様子で体に熱が入り、走り気味な様子を見せながらも、感情を強く言葉にぶつける。”だが現実の方がよっぽど無慈悲だ!!”絶叫に照明が赤から青へと切り替わる。激情の後に訪れる虚無感、救いようのない悲しみが余韻として残る。

言葉は自分の中に降り積もり、自分を形作っていく。それは負の言葉が呪いとなるのも同じこと。呪いの言葉からは逃げられるように、上書きできるように。どうか自分の言葉を、自分自身を見失わないように。

かつての絶望が残す死ぬまで消えない染み
それが綺麗な思い出まで浸食して汚すから
思い出も言葉も消えてしまえばいいと思った
言葉は積み重なる 人間を形作る
私が私自身を説き伏せてきたように
一行では無理でも十万行ならどうか
一日では無理でも十年を経たならどうか

秋田の絶唱とも言うべきポエトリーリーディングが胸に突き刺さる。私の中にもamazarashiの楽曲が、秋田の言葉が降り積もり、自分を形作っていくのだ。

終盤、紗幕には再びシルエットが浮かび上がり、ステージは真っ赤に染まる。井手上はギターを頭上に掲げ橋谷田も鬼気迫るドラムでエンディングを迎えた。

アウトロと次のイントロを繋ぐ秋田の言葉にエコーがかかる。誰かに呼びかけるように、自分自身に言い聞かせるように。

美しかったはずの僕らの人生
僕らの祈りの言葉を・・取り戻せ

(もう少し長かった)

ライフイズビューティフル

独白からのライフイズビューティフルという並びがなんともにくい。体中から絞り出すような苦しみ、葛藤、渇望そんな激情を温かな祈りに昇華する。
お馴染みの幾何学模様にピンクを基調とした華やかな照明、豊川の優しいピアノが主旋律となり花びらが舞うように胸を包むライフイズビューティフル。自分と他者、あるいは自分自身の中の境界線の挟間で、現実に葛藤し受諾と拒絶を繰り返しながら生きる日々。諦めてしまいたくなる瞬間もあるが、それでもそのどこかに救いがあるのなら、人生は美しいといえる瞬間があるならもう少し生きてみよう、そんなことを思わせてくれる。

久しぶりだな そっちはどうだ? 
元気してんなら別にそれでいいんだ
「俺らの夜明けがやってきたんだ」誰かが言った
けどな これだけは絶対言える 
俺らの夜明けはもうすぐそこだ
こんな時間か そろそろ帰るか?
なんだ帰りたくないって まぁ わいも同じだが
じゃあなまたな身体だけは気をつけろよ 
しっかり歩けよふらついてるぜ

友へ紡がれたであろうこの曲は語り口調のため友との朝帰り、青春の1ページを覗き見しているようなくすぐったい気持ちになり、なんだったら心の中で返事しているファンも沢山いるだろう(私や。笑)

終始美しい楽曲であるが、アウトロではギターロックに大きく変化する。秋田は汗を拭いながら、上手下手に目をやり満足気な表情でうなずくようにギターをかき鳴らす。ピックを持つ手に力が入り高く振り上げ、余韻を楽しむかのように空間に止まったままの腕は、まるで観客の代わりにハンズアップしているかのようだ。

東京 青森 路上 ライブハウス
歌う場所はどこでもいいぜ 歌う歌がわいの歌なら

このフレーズを聴く度胸が温かくなる。
どこだってかまわない。
どうか歌いたい歌を、歌い続けてほしい。

そういう人になりたいぜ

(映像は秋田ひろむの弾き語り)

ゆったりとした間。秋田の鼻をすする音が聞える。
豊川の中低音のピアノが優しく響き、秋田の声が重なる。1番はあまざらしでの演奏。

この曲は青森に戻りユニットを組んでからの秋田を支えてきた豊川へのラブソングのような、もう失ってしまった大切な人を想うような優しい曲。紗幕には豊川の手元と同じように演奏する鍵盤の絵が映し出される。ピアノとコーラスがこの日一番際立ち、amazarashiはやはり豊川あってこそだと思わせてくれる。コーラスというよりツインボーカルに近く、優しい旋律で少し不安定になる秋田を豊川がリードし支える場面もあった。

後半で積み木が出てきた所も原点を彷彿とさせ、奥から五線譜が出てきて歌詞が踊るように浮かんだりと楽しさもあるが派手な色使いはなく白黒が中心。今やamazarashiはタイアップをいくつもこなし、アジアツアーに出るようなアーティストとなったが、華やかな色をそぎ落とせば二人の世界。慈しむような歌が胸に沁みる。

君の気が狂っても待ってる奴がいるぜ
君の家が無くなっても帰る場所はあるぜ
君のために世界を終わらせてもいいぜ
そこで僕は凍えて死んじまってもいいぜ

こんな風に歌い思ってくれる人がいるのなら
この世界で生きることも捨てたものじゃないと思えてくる。境界線の向こう側で歌っていたはずのamazarashiは、気がつけばその線を乗り越え近づき寄り添って、手を差し伸べてくれる存在になっていた。

冒頭、僕はあんまり出来た人間ではないから~の所があんまーりと伸びていた所がとても愛おしくて素敵なので今後ともぜひ変えないでいただきたい。

終盤、“世界は明日も続くけれど”で線画のカーテンが閉じる。“私は私の思い出だけではない”と拒絶したように、これは始まりの物語、あるいは1つの扉でこの先こそが今のamazarashiなのだろう。演奏はやがてピアノだけに。とても短いあまざらしに戻った瞬間。これからも時折こんな二人を見せて欲しい。

MC

東京ありがとうございます。
ツアーももうそろそろ終わりで今は・・
本当ほっとしています。
各地で沢山見に来て、くれて・・
どうもありがとうございました。
amazarashiも10年続くと・・
色んな人がいると思うんです。
最近知ってくれた人とかずっと聴いてくれてる人や昔は聴いてたけど、今↑聴いてないって人とかいると思うんですけど・・でも・・ね?

わいたちはずっと続けてって・・
ああ、amazarashiまだやってんだなっていつか思ってもらえたら・・そのときにまた再会できれば嬉しいなと思っています。

いつでも待っていますんで・・・

今日は本当にありがとうございます。

コロナ禍でツアーを実行した故の葛藤が伝わる。
でも・・私たちは今ライブに来てる人達だから・・
すぐに再会しよう。ね?笑

未来になれなかったあの夜に 前口上

真っ暗な夜に留めようとするのは
大抵叶わなかった願い
この夜を振りほどいて明日に向かうために
決別の歌を
疎遠になってしまった友達
別れてしまった愛する人
もう無理だと泣きはらしていた自分自身へ
決別の歌を

未来になれなかったあの夜に

メンバーのシルエットが青の影となって揺れ、エレキギターの歪んだ音が空気を揺らす。自分の周りを包む雑音やカオスのような混乱の響きに清廉としたピアノの音が舞い降りる。後ろの紗幕には無数の文字が昇華されるように立ち上る。ライブを自由に出来なくなった時期を経てステージに立つamazarashiは何を思うのだろう。

“色々あったなの色々”が楽曲の出来た当時とはまた違った響き方で私たちの胸を鳴らす。過去を思い返しながらそれでも自分に問い続け歌い続けた秋田の生き様が生き生きと描かれるこの曲。自分の弱さと向き合い世間への恨み辛みを吐き出しながらそれでもその先に手を伸ばし続けた。

陰と光は表裏一体であり、陰の中にいては光が見えず絶望するかもしれないが陰があるということは光があるということだ。かといってただ闇雲に明日を信じろ、必ずいいことがあるさとは歌わない。足りなくても罵られてもどうかそのままで幸せになれるようにと、その後一歩をわずかでも確かな一歩を歩む勇気を与えてくれる。陰をまとったままその先にあるかすかに灯る希望の光。今も昔も変わらず私にとってのamazarashiはそんな存在だ。

“浄化する過去の巡礼”が本当に浄化されるようでとても美しかった。

秋田はギターを弾く手を振り上げ、帽子を押えながら演奏に熱をこめていく。サビを歌う秋田を挟んだ後ろで、井手上と中村武文は向き合い楽しそうに音を重ね、豊川もメンバーを微笑ましそうに優しい笑顔を浮かべながら鍵盤を叩く。橋谷田真はそんな音の世界に陶酔し想いを乗せるようにスネアを力強く鳴らす。

ざまあみろ!!

秋田の最後の叫びの後、アウトロでは皆思い思いに暴れる様が心を躍らせる。全身でその熱を表現していく様が私たちの胸に焼き付き、同時に終わりを予感させ切なさがこみ上げる。ベースの中村は弾き終わったあと手をぶらりと下げ、秋田はアコギを受け取った。

ラストの前口上が始まる。

夕立旅立ち 前口上

私は拒絶する
真っ暗な夜、自らを傷つける自分自身、旅路を阻もうとするもの・・

そういうものたちに拒絶を突きつける。

いつか夜は明けると膝を抱え
壊れては再生を繰り返し
私は私となって
あなたはあなたとなって
ようやく今日この夜で交わった

終わりと始まりを
エンディングから続く次の物語へ
旅の道すがら再会出来ることを願っています
別れの歌です
あなたの行く先に光を!夕立旅立ち!!

帰ってこいよの前口上で別れのための始まりの歌といった伏線を回収し、
新たな始まりのために別れの歌で見送る。

夕立旅立ち

紗幕には車窓に雨が打ち付け、雨曝しが映し出される。映像制作はTanaka Takeshiさん。その向こうにあるのは青森の風景。amazarashiが雨曝しになりながら歩いてきた日々、別れと始まりを予感させる旅路が描かれる。やがて雨は少しずつ上がり、曇り空になり、鉄塔をすり抜け雲の切れ間から虹が見える。サビには晴れ間が差し、やがて快晴へが広がっていく。空の青さがまぶしい。

都会のせわしない暮らしにも
したたか風が吹く 田舎の風が吹く
あんたの顔も忘れちまった
そういうことにして 忘れたことにして

ここの歌い方が(特に「て」)特に優しくて
家族や大切な人が思い浮かび、涙がこぼれた。

僕らは雨曝しだがそれでもと歌い続けてきた。もうamazarashiに傘はいらないのかもしれない。雨の中を歩いてきた者として、傘を差し出し、光へ導いてくれるような温かさを感じるようになった。だが同時にコロナで音楽活動がままならなくなり、きっと心を痛めたことだろう。青森に住んでいるからこそ収録やライブ、何かがあれば県をまたいでの移動を余儀なくされる。守りたい人もいる。ツアーを回るということは、自分達にも観客にも少なからずリスクがあり、その責任の一端を負わなくてはならない。

それでも実施することを決めた。それは観客である私たちも同じで、家族や周囲の人、自分自身を守るために行かない選択をした人もきっと沢山いる。私も9月の東京がそうだった。

これまで秋田がファンに向けて直接的に何かを言うことは少なかったが、こんな状況だからこそ、各自の選択を尊重しつつ、いつかきっとまたの願いを込めていつでも待ってるよと口にしたのだろう。

秋田は歌い終わりにありがとうございました!と伝え、アウトロでギターをかき鳴らした後、ありがとう!と再び声を上げた。
ラスト、BOYCOTT TOUR2021東京LINE CUBE SHIBUYA ありがとうございました!!

秋田の大きな叫びが会場を包み、少しの静寂の後、会場には鴉と白鳥が流れた。

鴉と白鳥

ラブソングに収録されたカラスが胸に呼び起こされる。一人で海辺の雪を踏みしめ群れをなして飛ぶカラスをぼんやりと見つめ孤独感が漂う。都会に打ちのめされ戻ってきた自分をむつ市の風が優しく包み再生した先で、今度はカラスに自己投影する。

孤独や妬み恨みつらみで黒く染まった鴉。麗しい羽を持った白鳥がまぶしく見えるけれど、その白鳥もまた人と違う悲しみを携えるもの。光と陰、ジキルとハイドのように鴉と白鳥が対をなす。その情景が目の前に広がるかのように色彩豊かに生き生きと描かれる。amazarashiの楽曲の中でも叙情性の豊かさは随一と言っていいだろう。

秋田の言葉の泉はどこから生まれるのだろうか。そんな美しさにひっそりと酔いしれながら、追加公演東京二日目は幕を閉じた。

ライブを振り返って

公演二日目と思えない程、秋田の声は伸びやかで枯れることもなかった。何より豊川がピアノとコーラスに戻ってきてくれたことが嬉しい。男5人のライブもいいが、やはり豊川の声と音が入ると彩りが豊かだ。そして10周年を有観客で出来なかったからこそファンへの配慮なのかたまたまか、いつもより豊川にスポットが当たりあまざらしに戻ったような二人のシーンが多く設けられていたのも嬉しかった。また、今回とにかくよく動いていた三人囃子は今後の活動も期待したい。笑

そして私自身はライブから2年以上離れた生活を送り、音楽を家で楽しみ、これもまた一つの生活スタイルかと思い始めていた。しかし実際足を運びその場に身を置いてみて、ライブとオンラインは別物であると強く実感した。音をまとった空気、突き上げられるような振動、照らされる照明、体の細胞に音が染みこんでいくような感覚。画面越しでは決して味わえない臨場感。

こんなにも会いたくて聴きたかったのかと音に心が触れた瞬間、自分の心が想像以上にすり減っていたことに気づかされる。生活に支障があるものではないが故に見えないことに気づかない。秋田が口にしたように数年経って失われたものに気づくのかもしれない。それはきっと琴線とか美しいものに触れた時に喜びに揺れる心の柔らかい部分だ。これから先、かつてと同じようにとは行かないかもしれないが、音楽で生活をする人も、それを楽しむ人も折り合いをつけながら少しずつまた同じ空間を共有できる時間が増えることを願ってやまない。

最後に

2年ぶりのamazarashiのライブはこれまでとこれからを確かに照らす優しさと光に満ちていた。このレポートがその光の欠片を届けられていたら嬉しい。どうかamazarashiの音楽があなたの明日を照らし、希望の光となりますように。

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