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【訳者感想】私の考えるコスモポリタン

O Henry作"A Cosmopolite in a Cafe"を翻訳し、ドはまりしてしまいました。

本編よりも長い解説まで書いてしまいました。

でも、まだまだ語り足りないので、以下感想です。

解説にも少し書きましたが、100年以上前の作品とは思えないぐらい、本作はいま読んでも「ぷっ」と笑ってしまう話なんです。いまでも共感できるセリフがたくさんあります。

「出身がどこかなんて、意味があるのでしょうか?住所で人間を判断するのはアンフェアじゃないですか?[中略]その人個人を見てあげましょうよ、レッテルを勝手に貼り付けて、色眼鏡で見るのではなくて」

「出身はどちらですか?」と聞かれて、内心ため息をついたことのある人は今もたくさんいるはず!
とはいえ、コグラン氏はそうやって出身地を聞いて人をラベリングするのはやめましょうと言っていますが、実際のところ「出身はどちらですか?」という質問は、地元トークなどで話を盛りあげたくて聞いているんですよね、きっと。
でも、たとえば私みたいな転勤族の場合、一つの地に長く住んだことがないので地元トークを広げられません。また、住んだことのある地を列挙しだすと、逆に話が収集つかなくなって、盛り下がるのでこれまた悩みどころ。私みたいな海外転勤族の場合、気をつけないと嫌味な自慢話に聞こえてしまうリスクもあります。この質問鉄板だと思っているあなた、けっこうハードル高いのよ、聞かないでー。

コグラン氏の「あなたコスモポリタンじゃないでしょ!」って言いたくなるポイントのひとつが、初対面の人間に延々と海外話を続けている点。私は話を振られない限り、自分が海外に住んでいたときの話は避けるようにしています。私の知人の帰国子女も、同じような人が多いです。なぜなら、日本にいるときであれば「キコク」、海外にいるときであれば「外国人」のレッテルを、自ら貼られに行くようなものだから。そうやってレッテルを貼られて、色眼鏡で見られるしんどさを嫌というほど経験しているから。
コグラン氏は、出身地から色眼鏡で見られて辛い思いをしたことはあっても、「移民」や「外国人」というレッテルを貼られて窮屈な思いをしたことがない、けっきょくは「海外経験豊富な旅行者」で終わっているという気がします。私が解説記事のタイトルに「自称コスモポリタン」と書いたのも、コグラン氏の言動が「コスモポリタン」にしてはそぐわないと思ったからでした。
広辞苑によれば、コスモポリタンとは「国境や国籍にとらわれず、世界を股にかける人」だそうです。残念ながら人種差別が今も昔も残る世界で、「移民」や「外国人」として色眼鏡で見られた経験のない人が本当に「世界を股にかけて」いるとは思えないです。

コグラン氏の「あなたコスモポリタンじゃないでしょ!」って言いたくなるもうひとつのポイントが、故郷を大切にする心をないがしろにしている点。「故郷を愛する気もちが強い人=非コスモポリタン」になるのでしょうか?

「そんなもの[愛国心]は石器時代の遺産です」とコグラン氏は朗らかに言った。
「私たち――中国人も、イギリス人も、ズールー人も、パタゴニア人も、カンザス川沿いに暮らす先住民族も――みな兄弟なのです。いつの日か、市や州や地域や国へのちっぽけな誇りなど消え去って、私たちはみな地球人となるのです。それがあるべき姿です」

本作が書かれた100年前に比べて、いまは地球上の移動がだいぶ楽になりました。とはいえ、海外への移住には時間も金も体力も必要です。海外旅行でさえ、ハードルは低くなりましたが、誰にでもできるものではありません。コグラン氏が言うような未来が現実になる、本当にあるべき姿とは、私にはどうも思えません。
移動が大変なのだから、特定の地、特に長く住んできた地に愛着をもつのは当たり前だと思うのです。一つの地に長く住んできた人を井の中の蛙だとバカにしたり、逆にいろんな地を見てきた人を「コスモポリタン」として崇め特に視野が広いと思うのも、短慮のような気がします。

某教授が、「国際」と冠しているものは、何にしても名ばかりで、本当に国際化した社会では、わざわざ「国際」だの「グローバル」だのと強調する必要性がなくなると信じている、というようなことを話していて、強く共感しました。わざわざ「コスモポリタン」を区別する必要性があるということは、「コスモポリタン」を特別視する必要性があるということになるのでしょう。

地球市民として互いに国籍や国境を越えて手を携える、そんな平和な世界が「あるべき姿」と言うのであれば、それには賛同したいです。でも、それは故郷を思う気もちをないがしろにした先にあるのではなく、お互いの故郷を思う気もちを尊重した先にあるのだと、私は思いたいです。そのような社会では、「コスモポリタン」は死語になっているのではないでしょうか。

本作の最後のオチで思わず「ぷっ」と笑ってしまうのも、故郷をけなされて激怒してしまうコグラン氏に共感するというか、同情してしまうというか、人間味を感じるからだと思うのです。

生まれ故郷だからって、古臭い街やら十エーカーほどの湿原にみながバカみたいにこだわるのを止めたら、世の中もっとよくなると思いますよ。

ってついさっき言っていた人が、なにやってんの!っていう笑いです。
そして、「真のコスモポリタン」というか、いい大人なら、そこは暴力に出てはだめよね、ブロンドの髪の女性が歌っているように「ただからかっただけ」なのだから。よっぽど腹に据えかねたのでしょうけど。
オチで、そんないい大人の人間らしさと言うかダメさが笑いを誘うのが、Oヘンリー作品のいいところだよなー、と翻訳していて個人的に思います。本作はプラス、読者に「コスモポリタンってなんなんだろう?」って考えさせるためにアメリカの南北戦争や海外旅行の増加をにおわせたり、キプリングの詩を引用したりしていて、すばらしいと思います。


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