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Undrunk

 氷の溶ける音は抜け落ちる心情に似ている。
パルプ材のコルクを手に取りガラスに近づけると色味が変わる。お酒も一緒で、それは秋口の朝五時の明暗だったり、料理中についた中指の浅い切り傷だったりする。傷ついた指先はミントを絞った香りがして、溶けて角のできた丸氷やブランデーに少し染みる。こもった匂いのする淡いブラウンのグラスが吐息で緩くくもる。氷の溶ける音がして、お湯割りのためのポットがチンチンと泣いている。
 泣きたいのはこっちだ。秋が連れてくる記憶や感情は、氷グラスにも溶けたりしない。スマートフォンの中に秘密の場所がある。写真だ。あれが写っている。それを見ながら身体を慰めてばかりいる。終わった後には、手の届かない深淵に蹲っているような、どうしようもない気分になる。

 ケリーの長い髪が頰に陰を落とすのを、真っ赤な夕日がライトアップする。ジーンズの裾を靴より数センチも高くして、いつも同じ黒の革ジャンを着ていた。シルバーのチャックとロンドンブーツの留め金が歩くたびにカチカチと鳴って、部屋の扉が開く前から訪ねてきたのがわかった。タイトなジーンズのポケットには、いつもくしゃくしゃのチェスターフィールドが入っていて、どこにでも売っている一ドルライターで火をつけていた。ヘビースモーカーなのによくライターをなくして、しょっちゅう一緒にコンビニへ買いに行った。色や種類にこだわりはなく、一番手前のものを見ずに手早く取った。一緒にスプライトの瓶ボトルを買った。煙草をくわえ下を向いて左手でつけた。長いブロンドの髪にいつも燃え移りそうなのを心配して見ていた。左手中指のアーマーリングは友人から誕生日にもらった本物だと言っていた。煙草の煤がついて少し黒くなっていた。たまに借りたけれどサイズが合わなくていつも落としそうだった。寝るためにノヴォカインが必要で、二重で大きいけれどいつも半開きの目の下に隈があった。まぶたはシセイのグレー・シャドーに似ていて、うわまつ毛としたまつ毛が同じ長さだった。頬骨がくっきり浮かんだ頬はいつも冷たかった。薄くて横に広い口の形がわたしと良く似ていた。
 大して強くもないくせにお酒が、特にウィスキーやブランデーが好きだった。レミー・マルタンやジャックダニエルが好きなところもパンクスの影響を受けていた。彼の部屋の中はいつも、寝室まで空きボトルで埋め尽くされていた。

 チンチンと音を立てているのがポットではないことに気づく。キッチンの煙探知機が鳴っている。ブランデーをお湯で割ろうとしたのを思い出す。ポットが煙を吹いていて、そのまま位置の悪い探知機に吸い込まれている。慌てて脚立を出し、鳴り響く音に顔をしかめながらスイッチを切る。とたん、扉がどんどんと音を立てた。誰かがノックしている。わたしは返事をして走るように脚立を降りドアを開けた。
「火事かい?」
 管理人のマーティが心配顔で現れた。わたしはホッとひと息ついて、いいえなんでもないの、と説明する。呼吸がひとりでに整うのを感じる。
「ちょっとお湯を放っといたら鳴ったのよ」
「場所が悪いのねぇ、あんたのところ」
 マーティが呆れたようなため息をつく。これで今年に入って三回目なのだ。
「気をつけるわ」
「今度サリーを呼んで見てもらうわ」開けたドアの奥は夕暮れを過ぎていて、夜と夕陽がまさに溶け込むところだった。
「もう一年になるわね」
「そうね」
 マーティの気の毒そうな顔を尻目に短く返事をする。身体が冷えるわと言い、わたしはマーティを見送ってドアを閉めた。

 秋がグレーライトを落としていく。特に肌寒くて曇りの日、街は仄暗いグレーに染まる。落ち葉が足元をカサカサと過ぎ去って、ダークグレーの風に飲み込まれていくのを見ると、取り残された気分が増していく。ラガーカラーの厚手のマフラーやブルトンのカフェラテだって意味がない。白の禿げた横断歩道の横縞が、随分前に亡くなったおばあちゃんの顔に見えたりする。「ケビン」横断歩道のおばあちゃんが言う。「ケビン。あなたに顔がそっくりなあの子は誰なの?」わたしはいつも言った。「近所のケリーよ。わたしの友達なの」子犬のケイジーを撫でていた。おばあちゃんもケイジーも、わたしが高校に入ってまもなく、同じ日に老衰で亡くなった。おばあちゃんの墓標のとなりにはケイジーの小さな白い十字架が立った。
 おばあちゃんの葬式で四年ぶりに会ったケリーは大人になっていて、髪が長くなっていて、涙の止まらないわたしの頰を優しく拭った。あれも秋だった。カルバン・クラインの香りがした。

 おばあちゃんが亡くなって二年後に大学に入ったわたしは、バス停からほど近い今のこのアパートに住み始めた。同じ大学を先に卒業していたケリーに周辺案内してもらった後、部屋でコーヒーを飲むために連れてきたことがある。マーティは二階のわたしの部屋の隣に住んでいて、わたしとケリーが帰った時、階段そばのベランダで洗濯物を干していたところだった。
「ボーイフレンドかい?」
 マーティが洗濯物の影から見守るように微笑む。わたしは笑った。
「違うの、幼馴染よ。大学の先輩なのよ」
「ハイ、ケリーだ。彼女とは昔から兄妹同然に仲が良くて」
 マーティがケリーに会うのはあれが初めてだった。わたし達は部屋に入るなり、お互い顔を見合わせて笑った。
「ボーイフレンドなんて言ってたわ、マーティ」
「僕ら似てるのにね」
「どの辺りが?」
「髪型じゃないかな」
 わたしは笑った。ケリーもわたしもブロンドの髪を長く伸ばしていた。ケリーのクールに決める冗談は面白かった。そして、リビングのソファでコーヒーを飲みながら、幼い頃と変わりなくわたしの側の手を握って囁いてくれた。「ケビン、綺麗になったね」、と。
 大学二年になった秋、同じ学科の彼氏に浮気された。ナイトクラブで他の学校の子とキスしてるのを何人かの友達が見たと言っていた。わたしは彼に言い訳を聞かされたけど、真面目なところと熱心に愛してくれるところが好きだったのに、「出来心だ」などと言われ傷ついた。悲しいあまりその場で別れを告げた。泣きながら帰宅している途中で、高架下でストリートバスケをしていた男の子のグループに絡まれた。その中にケリーがいて、泣いているわたしに絡む友達を蹴散らし、わたしを部屋に連れて行ってくれた。泣きじゃくる私を抱き留めて、ブルトンのカフェラテを入れてくれた。それから一緒にお湯割りのブランデーを飲んだ。
 その日ケリーと結ばれた。
 わたしは何も知らなかった。

 ケビン、とケリーが囁き声でわたしを呼ぶと、それは側にきてくれという合図で、わたしはお気に入りのウイスキーグラスを右手にしたままケリーの長い脚の間に腰掛ける。わたしはポットでお湯を沸かしていたのを忘れていて、キスしてる間にチンチンとなる音に邪魔される。わたしが渋々と立ち上がるとケリーはポットのまねをする。チンチン、チンチンと言って。それが全然似ていなくて笑えてくる。
 ケリーは昔から音楽が好きだった。特にピストルズが好きで、ジョニー・ロットンみたいな格好をしていた。どうしてシドじゃないの、と聞くと「コカインが好きじゃないんだ」と冗談を言った。幼い頃、おばあちゃんの家で見つけたお揃いの金のネックレスを付けていたのを思い出した。わたしが白鳥で、ケリーが鷲のモチーフだった。

 ある夜、ケリーはいつものように囁いた。愛してる、と。いつも年の離れたケリーを追いかけて、その手に撫でて欲しくて、笑顔を見せて欲しくて笑った。ケビンはいつもケリーを愛している。彼に手を握られることが嬉しかった。
 ケリーは囁いた。もう会わない、と。彼は言った。「僕たちは本当に似ているね」いつもと同じ表情だった。わたしは神様、と声を漏らした。そのまま泣いた。薄々感づいていた。ケリーは優しく肩を抱いて、髪にキスを落として、音も立てずに出て行った。
 次の朝、ケリーはバイクで事故にあって、凍えた川に投げ出された。晩秋の木曜日だった。昼過ぎのダイニングキッチンの棚の上に、アーマーリングが置いてあるのに気づいた。冷たい秋の匂いがカーテンに沁みて、わたしの中の幼いケビンも死んだ。
 ケイジーは、昔戦争で亡くなったおじいちゃんの名前だと、おばあちゃんが言っていた。わたしの家系はみんな、イニシャルがKで始まる名前がついていた。
 トト、と音を立ててポットからお湯がグラスに注がれる。グラスの中でブラウンと透明がゆっくり混じり合って、丸削りの氷をパキパキ、と溶かしていく。沸騰した直後の飛沫が飛んで指にあたる。ひりひりと滲みるが、ケリーの長い髪と日の透ける光を思うほど、痛くはない。

 パリパリと剥がれおちる氷菓の夢が、ブランデー越しに喉を焼いていく。アーマーリングは緩く、冷たい。わたしは目を閉じて、ライターの音に耳を澄ませた。


Image:FLETCHER/Undrunk


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