21.部下に手を出す上司は信用できない
1~5話 6〜10話 11~15話 16~20話(全31話)
21.堂道課長は部下に手を出す上司になりたくない
堂道との男女の接点はなくなったが、まだその体調を気遣うくらいは糸に許されていて、たとえば残業が続いていそうな時に栄養ドリンクの差し入れは受け取ってもらえる。
あと、二日酔いらしい時の胃腸薬と。買いに行くのも辛そうで、この時はひどくありがたがられた。
毎日二日酔いになればいいのにと密かに思っている。
ここ数日、また堂道は忙しいようだった。
日中はほとんど外回りで離席していて、定時後には会社に戻っているようだが、糸は顔を見ることもできていなかった。
羽切が、四十歳を過ぎると信じられないほど急激な体力の衰えを感じると嘆いていたので、堂道もそうなのかと思い、やはり心配にはなっている。糸にできることはほとんどないが。
思い出がたくさんあるわけでもなければ、長い年月をかけて温めたり、二人で関係を築き上げてきた結果でもない堂道への想いだから、関わりさえなければすぐにないことにできる。
すぐに、堂道のいた時間を忘れられる。
運命的ではない恋なんてそんなものだ。
「えっ!? 商品が足りない!?」
午後一番、一本の架電で二課がにわかに慌ただしくなった。
堂道は外出していて、二課には夏実と尾藤しかいない。
電話の主はどうやら椎野らしい。
「はい……ええ、O工場に行けば在庫が? はい……はい……それだと間に合わないかも。課長はIC物産で部長クラスと打ち合わせ中で……」
事情を聞きたいが、そんな余裕は夏実にはない。
電話を受けながら尾藤とも情報を共有しているが、その顔は焦りで強張っている。
「どうした?」
在席していた羽切が見かねて、夏実に尋ねた。
「それが……」
今日の十八時からのイベントに必要な商品の数が足りていないとのことだった。ただ、千葉の工場に連絡をしたところ、在庫は確保できたという。
「段ボール五箱なので私たちで運ぶことは可能ですが、千葉に寄ってから愛知に行くには時間がギリギリで……」
「すぐ行って! 念のため二人で。社用車の使用申請は俺が通しておくから! 今ある仕事の申し送りは後で車の中でから指示して」
「それが……」
「どうした?」
「私も尾藤君も免許持ってないんです……」
「あー……」
羽切は額に手を当て、わかりやすく失望している。
「榮倉くんも堂道課長も打ち合わせ中で、仮に連絡がついたとしても即座に動けるかどうか微妙で……」
短い逡巡のあと、羽切の視線が糸を向く。
糸も二課の動向を追っていたのですぐにそれに応えることができた。
「玉響さん、免許持ってたよね!?」
はい、と立ち上がったとき、糸はすでに鞄を持っていた。
「私、ゴールドです!」
*
減速しようと踏んだはずのブレーキは踏み加減がわからず、車はキュッと急停止した。
当然、車中の二人も絵に描いたように前につんのめる。
「あるあるだよね! ゴールド免許無事故無違反、その心は! 運転しないから!」
助手席で羽切が顔を強張らせている。
まるで命綱かのようにシートベルトを両手で握りしめて。
「大丈夫です! この車に慣れていないだけです。このブレーキ、効きがすごくよくて……」
「話さなくていいから! 集中して! そして、早く慣れて! お願い!」
体の近くで持ったハンドルは十時十分の位置、背もたれは垂直に立て、教習所で教官を乗せているときよりも正しい姿勢だ。
「これって俺が運転した方がよかったやつ!? いやいや、それだと意味ないし。玉響さん、車線! 左左左! ここ日本! 左側通行!」
羽切は、対向車がいなくてよかったと脱力してシートに深く沈んだ。
そもそもまだビルの地下駐車場にいて、公道にも出ていない。
「やっぱり隣が尾藤でなくてよかった……。玉響さんの運転で、助手席が免許なしとか怖すぎる」
羽切は最初、糸に尾藤を伴わせようとしていた。
そもそもが二課の案件であるし、ましてやよその課長自ら出ていかねばならないほどのトラブルでもない。
しかし、尾藤が鞄を手にした段になって、羽切が突如「やっぱり俺が行くわ」と言い出したのだ。
尾藤の仕事ぶりから彼では頼りないと判断したのだろうか。
「羽切課長が乗ってくださって、私は安心ですけど」
「いや、尾藤行かせたらアシストにならないって思ってさ」
「どういう意味ですか」
答えを聞く前に、羽切のスマホが震える。
「お、来た来た」
糸に隣を窺う余裕はないが、羽切は嬉々として電話に出た。
「おう、お疲れ。うん、今千葉向かってるとこ。今すぐ出ればあっちで落ち合えるんじゃないかなと思ってるんだけど。ハイ、ハイ。了解」
「堂道課長からですか?」
「うん。堂道も工場に向かうって。電車だろうな。その方が早い」
糸はいくらか満足げに口角をあげる。
「ありがとうございます。堂道課長のお役に立てる機会を与えてもらえて。私、今日まで、全然車に乗らないのに免許なんてあったって更新ダルいだけだと思ってましたけど、私の免許はこの日のためにあったんだって感動しています」
「え、全然、車乗らないんだ……?」
「じ、実家に帰ったら運転することもありますよ! ……まあ、かれこれ数年は乗ってませんが……」
「最後に乗ったのが何年前かはもう聞かないことにする……とにかく安全運転で行こう」
やがて、羽切はナビを操作しながら、感慨深げに言う。
「俺もね、役に立てそうで嬉しいよ」
糸は車に乗りなれていないだけで、試験には合格したのだから、感覚を思い出しさえすれば運転技術に問題はないはずで、首都高速の乗り口までは羽切も生きた心地がしなかったが、高速道路に入るころには糸のドライビングは安定してきた。
運転は糸に任せ、助手席で電話やタブレットの画面に集中し、仕事ができるくらいには目が離せる。
目的地まであと十分ですとナビが告げて、羽切が書類や端末を鞄にしまいだした。
「玉響さん、この調子で愛知まで行ける? 堂道と」
「えっ、堂道課長と!?」
驚いて羽切を向くと、「前! 前!」とおきまりの展開で羽切を再び焦らせる。
「うん、工場で俺とチェンジ」
「……あ、だから、羽切課長が一緒に来てくださったんですか」
「まあね。だってここで尾藤だったら間違いなく、堂道が運転、同行が尾藤になるだろ?」
羽切の機転と好意。
しかし、ペーパードライバーの運転で愛知まで。
「しかも、私の運転史上、最も長距離です……」
思わず呟いていた。
「玉響さん」
「はい」
「君が免許取ったのは、何のためだったんだっけ?」
糸はハンドルを握りなおす。
十時十分。
「……死ぬ気で行きます」
「いや、死ぬ気で運転って……それシャレになんないからね」
羽切は無意識なのだろう、また強くシートベルトを握っていた。
*
工場の駐車場には堂道が待ち構えていて、すでに積荷の準備を整えていた。
「は? なんで」
運転している糸を見て、顎が外れそうなくらいの大口を開いている。
「玉響さんは乗ったままで」
糸は羽切の指示で運転席から離れない。
唖然とする堂道をよそに、羽切が車から降りるとトランクを開け、段ボールを積み始めた。
「だって、おたくの尾藤君、免許ないって言うんだもん。イマドキだよなぁ」
「……それでも、じゃあ、羽切と尾藤でよくね?」
「いやあ、玉響さんが超運転得意って言うもんだから。で、俺は仕事が残ってるのでここで失礼する」
「は?」
「堂道課長、早く乗ってください」
「いやいや、たまゆらサン、この件に一番無関係だから。それに、百歩譲ってさ、普通俺運転じゃね?」
「んな、細かいこと言ってる時間ないし、代わるなら途中で代わればいいだろ。ほら、急がないと」
「はめやがったな。なんのワナだよ!」
「罠とか子どもじゃないんだから、仕事だよ。ったく、アホか」
羽切がすべての段ボールを積み終えて、トランクのドアを勢いよく閉めた。
ぎりぎりと苛立っていた堂道だったが、急いていることもあって腹をくくったのか、
「あーーー! わあったよ!」
と助手席に荒々しく乗り込む。
「時間十分間に合うから。玉響さん、くれぐれも安全運転でね」
「お任せください」
羽切と工場の担当者に見送られ、かくして糸と堂道は出発した。
*
「アアア!? よくこれで運転手を買って出たもんだな! どこが運転超得意なんだよ! おいっ、ブレーキブレーキブレーキ! ブレーキおせえよ!」
狭い車中で叫ぶ堂道は、天井横のグリップに縋るように掴まって、座っているのに腰が引けている。
「ちょっと黙っててもらえませんか。気が散ります」
「黙ってらんねぇ運転すっからだろうが! 俺だってゆっくり乗ってたいわ! 運転代わるし! 停めろ! 代わる! あっ、ちょい待て! こんなとこで急に減速すんな! 後ろ来てるから!」
「え、だって、停まれって……」
「あああ、もういいっ! 行け! 行けるとこまで行ってみろよ!」
「はあ……」
「それにしても羽切のやつ、意外と命知らずな野郎だぜ! よくこれに乗ってきたな! 久しぶりに生きたが心地しねえ!」
「高速乗るまで我慢してください!」
「スリル満点だろ!」
次第に堂道は興奮してきて、とうとう愉快そうに笑いだした。恐怖心が振り切っておかしくなったというよりは、昔を思い出して血が騒ぐ、そんな感じだった。
さすがに窓から身体を乗り出したりはしなかったが、今にもしそうな勢いはあったし、車にサンルーフがついていれば絶対に開けて顔を出していただろう。
糸の自信のとおり、高速道路に入ると運転は安定する。
それと共に堂道も急に静かになった。
ちらりと助手席を窺うと、興奮の反動でか、あてられたようにじっと前を見つめて静かに座っている。
普段、一本の乱れも許さない堂道のセットされた髪が、今は一筋額にかかっていて、それは糸の運転のせいかもしれなかったが、堂道の疲労を色濃くしていた。
「課長、寝てていいですよ」
堂道は緩慢な動作で糸を向き、「ハァ?」と悪態をついてから、
「怖くて寝てられっかよ。第一、他所の事務サンに運転させててさ、グースカ寝てられるほど能天気にできてねえよ」
「そうは言っても、堂道課長すごくお疲れでしょう? 会社に泊ってる日だってあるの、私、知ってますよ」
「あんたストーカーだったな、そういえば」
「大丈夫です。今は前みたいには課長のこと観察してませんからご安心を」
「それは何よりだ」
「でも、心配くらいはさせてください」
堂道はため息をついた。
「直属でもない部下に心配されてるようじゃ、俺もショボいな」
糸が堂道に与えることのできるものはけして多くない。多くないどころかほとんどない。
女も若さも、おそらく飯炊女や家政婦的役割も、癒しも楽しみも希望も喜びも、ただの部下というポジションさえも求められていない。求められないのに何をしてもそれは自己満足であり、迷惑にしかならない。
しかし今、糸は堂道に休息を与えることができる。確かに必要な力になることができる。
相手に何かを求めるのは愛ではない。
愛は、無欲に、ただ相手を思いやることだ。
「だったら言い方を変えます」
「言い方?」
「心配になるくらいには、まだ好きです」
少しの沈黙があって、堂道が鼻で笑う。
驚きと自嘲が混じったような短い笑いだった。
「……なんだかんだあったけど、好きとか、アンタの口から初めて聞いたな」
それだけ言って、堂道は勢いよくリクライニングレバーを操作して、シート後方に倒して平たくした。
「寝ててやる」
「ごゆっくり! 任せてください!」
とは言ったものの、糸自身でさえ自分の運転は危険で怖いと思う。「寝ていられるか」という文句は間違っていない。
それなのに、堂道は最初こそ寝たふりのつもりだったのかもしれないがそのうち本当に寝てしまった。
ついには、いびきまでかきだして、名古屋に着くまで起きなかった。
糸はその豪胆さに驚愕しつつも、一つでも、この恋で堂道の力になれたことを少し泣いた。
「えっ、糸ちゃん!? なんで!?」
「助っ人で来ました」
「てっきり課長が一人で向かって下さってるのかと」
椎野が早速荷物を受け取りながら、信じられない顔で言う。
まさに「どうにかこうにか」の状態で、しかし、イベント会場には時間に余裕をもって到着することができた。
堂道には十分な睡眠時間になったはずだが、再び、高速道路を降りてからの危なっかしい運転で、チャージした分のエネルギーはすでにまた消耗されたかもしれない。
「とにかくありがとう! 助かったよ。課長もわざわざすみません」
「詳しいことは改めて聞くけど、お前のミスなのか?」
「いいえ。それが……」
椎野が視線をやった先には隅の方に二人。
平身低頭して謝っている片方に、腕組みをして怒鳴り散らしているのはその上役らしい。
今回の取引相手だそうだが、謝罪の相手がまず間違っている。
数の不足は取引先の誤発注で、糸たちのおかげで無事、数は間に合った。
それなのに、先方の上司は担当者を、糸たちの目の前で叱責するだけでは気が済まず、なんと頭を殴ったのだ。
「えっ」
糸は、驚きのあまり後ずさった。
上司だの部下だのは関係ない。旧体制や体育会系の組織では根強く残る指導法なのかもしれないが、もはや立派に傷害罪だ。
「あー、よくない上司の見本だな、ありゃ」
椎野と糸は目を合わせた。
「あなたがそれを言うんですか」とツッコミを入れずにはいられない発言だが、さすがにわが社の『鬼の堂道』も人を殴ったという話は聞いたことがないので、堂道にもそう言う権利はあるのだろう。
「部下に手を出すような上司は信用すんなよ」
堂道はその場から踵を返しながら言った。
「え。そっちの『手を出す』だったんですか……!?」
「は? なにが」
糸は慌てて追いかけて、
「いえ、なんでも。あの、課長はお残りになりますか?」
そもそもが二課の仕事。荷物を渡しさえすれば、糸はお役御免だ。
堂道は片眉を釣り上げて、糸を睨んだ。
「あんた一人の運転で帰らせると思ってんのか。俺ァ、事故の始末書なんざ書きたくねーよ」
「それなら、明日までの使用で社用車の申請を出しておくと羽切課長が仰ってましたので、その場合、私は新幹線で帰りますが」
「別に」
堂道は答えにならない返事をしたかと思うと、
「じゃー、俺ら帰るわー」
すでに仕事に戻っていた椎野に向かって大きな声で言った。
「腹減ったー。せっかくだし、ひつまぶしでも食ってくか」
駐車場に停めた社用車に向かいながらそう言って、堂道は首を鳴らした。
予想以上の展開に、糸は思考が追い付かない。
堂道とのドライブは行き道だけで、帰りは、車であれ電車であれ一人で帰ることになるだろうと思っていた。
それでも十分すぎる、こんな棚ボタデートを段取りしてくれるなんて、羽切には感謝してもしきれないと思っていたのに。
「なに? 腹減ってねーの?」
返事をしない糸を訝しげに顔だけで振り返ってくる。
「……えっ、は、はい! 減ってます! 行きます!」
「キー、貸せ」
「私、運転できますよ、全然。むしろ運転したいです」
「安全には運転できてねえから。それになー、ペーパーが休憩なしで四時間とか、もうそれ普通じゃねえやつなの。神経昂ってハイになってるだけ」
「でも、それこそ四時間も長距離を運転したら、そんなのまた堂道課長のお疲れの原因になります……」
堂道はまた鼻で笑う。
「こんくらいで疲れてたまるか。行きに寝させてもらったしな」
糸は車のキーをしぶしぶ手渡した。
ロックが解除され、堂道が運転席の方に回りながら言う。
「それに俺らの世代は、助手席に女乗せてナンボなんだよ」
言葉の意味をイメージしながら、糸は助手席に乗り込んだ。
シートベルトをしめながら、
「……なんですか、それ。バブリーな思い出ですか?」
「ちげーよ。言っとくけど、俺はバブル世代じゃねーから。俺ん時、就職氷河期だから」
「そうなんですか?」
「ま、あんたらには神田川もバブルも俺らの時代も、全部一緒に見えるんだろうな」
「……さすがに課長が神田川の世代じゃないのはわかりますけど」
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