『見仏記』は何度でも読みたくなる~『見仏記7 仏像ロケ隊がゆく』(いとうせいこう、みうらじゅん)~
これはすでにご紹介済みの『見仏記 メディアミックス篇』を改題し、文庫化したものです。
だから本来は上記の記事をご覧いただければ、7巻についての記事を別に書く必要はありませんし、そもそも内容が同じなのに、改めて7巻を読んだ私は相当物好きだと、我ながら思います。
勘違いして、図書館で単行本と文庫の両方を時間差で取り寄せてしまい、せっかく借りたのだからとパラパラめくりはじめたら、結局文庫も完読してしまった次第です。私は読みながら気になったところに短冊をはさむ主義なのですが、気づけばびっくりするほどの枚数の短冊をはさんでいました。つい先週単行本で読んだばかりなのに、なぜか単行本の時とは別のところが印象に残ったわけです。よって、あえて別に感想記事を書くことにしました。
↑kindle版
なぜ別のところが印象に残ったのか。それは、いとうせいこうの言葉を借りればこうです。
これまで私たちに見えていなかっただけだ。だから仏像は何度でも見たくなる。
見仏コンビは1巻以来、繰り返し奈良の新薬師寺を訪れていますが、今回初めて二人の目が、みうらじゅん呼ぶところの「ボタニカル光背」に向きました。『見仏記』もまた、仏像並みの力を持つのかもしれません。
ともあれ、今回気になった部分を、備忘録的にご紹介します。
十一面観音が水の信仰と切り離せないことを思い出した。
そうかー。だから東大寺のお水取りの舞台である二月堂のご本尊も、十一面観音なんですね。
みうらじゅんの挿絵に、滋賀の神積寺の文殊菩薩が天橋立の文殊菩薩と知恵比べをしたとありましたが、文殊菩薩って一人(?)ではないってことですね。文殊菩薩同士の知恵比べって、すごいし、面白くもあります。
兵庫県の斑鳩寺にでこぼこで球形に近い、「聖徳太子が使っていた地球儀」と呼ばれるものがあるそうですが、当時、地球球体説的な考えがすでにあったとしたら、面白いですね。年代不詳だそうですが。
みうらさんは横で書写山の言いにくさを克服しようとしていた。と同時に空の一角にある小さな晴れ間を指さし、なんと雨を止めようとしていた。陰陽師のようだったが、まず目的地さえ言えていない。晴れ間はむしろ閉じていった。
この一節、何度読んでも笑えます。
東京駅の待合室で、「イヤホンで何かを聞いていて同時にスマホなどみている」ビジネスマンを見て、いとうせいこうが「この人たちに見仏記を届かせるとしたらどうすべきか」と考える一節があるのですが、結局
どう届かせるかはひとまず考えるまい。(中略)自分たちがまずどれほど楽しい旅をするか。それを中心にする以外ないのだ。
という結論に至ります。『見仏記』とは無縁そうな人にも届けたいと、真剣に考えるいとうせいこうの真面目さに心打たれました。まさに「妙な気真面目さ(というか遊びへの無自覚な真剣さ)」を二人が持っているからこそ、このシリーズは面白いのでしょう。
梵篋印(ぼんきょういん):善光寺式の阿弥陀三尊像で、脇侍の観音と勢至が組んでいる印。
↑備忘録なので、唐突ですが。
なにしろ、時代はみうらさんの崖の方に来た。ジブリごと来た。
ジブリまで来ないでも良いけど(いや、来てくれる分には嬉しいけど)、マンホールだの単管バリケードだの、私が追っかけているものの時代も来ると良いなぁ。
「祈りって何だろうね?」というみうらじゅんの問いへの、いとうせいこうの答えは、「自力を捨てるってことじゃない? 特に阿弥陀の前ではそうなるよね」というものでした。
権現の権、権力の権という字はかりそめという意味です
これは吉野の金峯山寺の宗務総長の田中さんの言葉。世の権力者(っていうか、権力を持っていると思っている人)に、心に留めておいてほしい言葉です。
なお、『見仏記』シリーズでは巻を追うごとに、「諸行無常」という感覚がにじむようになってきました。この巻では、それがいよいよ色濃くなります。
見仏コンビは老眼に悩まされ、いとうせいこうの「記憶を担っていたみうらさんが、ついにど忘れ」し、間違って「吸い込まれるように老人たちのバンに乗ろうとし」ます。二人の好きな、猿沢の池の端にある茶屋の先代のおやじさんも、もういません。二人とも、膝が痛みます。そして二人とも、それぞれの親に似てきました。だからこそ、以下の言葉が胸に染みます。
人は繰り返し記憶を蘇らせなければ、大切なことを忘れてしまう。あれほどの記憶力のみうらさんさえ、たくさんのことを忘れ始めたように。
なお、みうらじゅんが老眼で煎茶のパックの切り口が見えず、「上部がビロビロに伸びた」状態でいとうせいこう(もちろん彼も老眼)に渡す部分は、おかしい半面、せつなさを感じます。私も老眼なので。
ここまでは、本来は単行本と共通の感想ですが、「文庫版あとがき」も良かったです。
もはや我々は飾ろうという気持ちもなく、仕事だから張り切ろうと努力するわけでもなく、ただひたすらそこに仏像のある限り見仏する。そういう二匹の動物のごとき存在になってしまったのである。で、不思議なことにそうした、ある意味無心に近い状態の我々の前に、望み以上の仏像が現れる。(中略)我々は幸せの絶頂のまま見仏を繰り返している。
こんな境地で仕事ができたら、そして生きられたら、どんなに良いだろうとうらやましく思います。でもまずは、小さなことにこだわらない、「おおどか」な人間になりたいものです。
見出し画像は、浜松の方広寺にて撮影。
↑文庫版
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