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【読書】千鳥ヶ淵は水瓶~『奥州仁義 三河雑兵心得(拾参)』(井原忠政)~

「三河雑兵心得」シリーズの第13巻です。

↑kindle版


茂兵衛は今巻では(今巻でも?)、大移動です。高野山から駿府城に戻り、江戸に引っ越した後、奥州に行かされます。ありえないほどの大移動です。


戦国期の日本の往還は、防衛上の必要から基本的に悪路が放置されていた。狭い上に整備が施されていない状態だから、一度雨などが降ると、泥田の中を歩むような仕儀となった。もちろん、川に橋などは架かっていない。

p.12

何と、わざと悪路のままにされていたとは。


茂兵衛の暴力(今回の場合は耳を掴む)は本多正信に言わせると、「愛嬌と軽みのある暴力」(p.26)だそうですが、茂兵衛ならずとも、今一つよく分かりません……。


茂兵衛の娘の綾乃が茂兵衛を「父上」と呼ばず、「もへえ」と呼び続ける理由が、ついに明らかになるのですが、綾乃の健気さに泣けます。


「飲み水を貯める巨大な水瓶として、同時に城の水堀としても使おうと考えたのが、今から行く千鳥ヶ淵だがね」

p.122

千鳥ヶ淵が水瓶だったとは、知りませんでした。ちなみに上の台詞は半蔵のものなのですが、茂兵衛と綾乃と半蔵の遠足、なかなか面白いです。


この時代の「風呂」は蒸し風呂を指し、「湯」は桶に湯を溜めて浸かった。

p.157

ほうほう(←茂兵衛の真似)。


以逸待労は初耳なので、控えておきます。


この時代にも孟宗竹はあったが、まだ自生しているほどではなく、竹束は細い真竹で作らざるを得なかった。

p.223

孟宗竹は直径20センチ、真竹は条件が良くて直径10センチなので、竹束を作る大変さが想像できます。


鉄砲の弾は直進するが、矢は大きな放物線を描いて飛ぶ。つまり、土塁の下から射ても、火矢は敵城の奥深くにまで達するのだ。運よく兵糧蔵や火薬庫に火が点けば決定的だし、そうでなくとも、家屋に火が点けば消火に人手が割かれるので、防御が薄くなる。かくのごとく、弓矢は使いようだ。決して「古臭い、時代遅れの得物」ではない。

p.236

ほうほう。


井伊直政は蒲生氏郷同様、最も危険な場所を選び、家臣の先頭に立って突っ込み、そして年中怪我を負っている。

p.242

ああ、だから後年の関ケ原の戦いでも、あんなことに……。


「貴公ら上方衆はそうやってすぐワスらば騙す。上方衆は信用がならねェ。息を吐ぐように嘘を抜がす」

p.259

九戸政実の言葉ですが、これは坂上田村麻呂の頃から虐げられてきた、みちのくの人々の思いでしょうね。


「三河より東が東国、尾張より西が上方にござる。現に三河と尾張の国境には、境川とゆう川が流れてござる」

p.259

茂兵衛の言葉ですが、三河と尾張の関係が微妙な理由の一つはこれかと、納得がいきました。


見出し画像は、分かりにくいですが、一応千鳥ヶ淵です。


↑文庫版


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