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忘れてはいけないことを思い出させてくれる、美しい学術書~『<ポスト3.11>メディア言説再考』(ミツヨ・ワダ・マルシアーノ)~

*この記事は、2019年4月のブログの記事を再構成したものです。


まず印象的だったのが、学術書でありながら、装丁が美しいことです。


その美しさは、カバー下の本体の表紙や見返し、遊び紙、花ぎれ、しおりに使われている水色に起因します。学術書には、割とそっけない装丁のものが多いですが、ただでさえ内容の難しさから敬遠されがちなのだから、見た目で手に取ってもらうことも必要ですよね。そういう意味で、この本は成功していると思います。


しかしその水色は、カバー写真にも点々と見える、原発事故で出た除染土を覆うブルーシートに恐らく由来するのだろうと気づくと、見る目が変わります。人々の生活の場のすぐそばで危険なものが保管されており、それが日常となってしまっている福島の異常さを、静かに訴えているわけです。


以下、印象に残った箇所と思ったことを書きます。触れなかった章が、何も心に残らなかったという意味では、もちろんありません。うまく言葉にまとめられない私の、筆力不足です。また、感想が各著者の主張の本筋を踏まえてのものではなく、時に細部についてのものになる点は、ご容赦ください。


〇第1章 記憶メディアとしての災害遺構 3.11の記憶術(松浦雄介)

記念碑と災害遺構の違いは、墓と遺体との違いに似ている。記念碑とは墓のようなものである。(中略)それにたいして災害遺構が遺体にも似た不気味さを漂わせているのは、そこに災害のおぞましさが刻印されているからである。

日本は特に、記念碑を作るのに熱心で、災害遺構を残すことには積極的でない国だと思ってきましたが、上記の記述で、その理由が分かった気がしました。特に遺族にとっては、家族が命を落とした場所を見るだけでも辛いのは充分に理解できますが、記念碑ではダメな場合もあると思います。


〇第3章 「安全安心」の創造――お札効果とその構造(西村大志)

(社会学者)見田(宗介)はその論考を「人間は歴史をつくり、そして歴史につくられる」とはじめている。それにならえば、新聞記事を用いる本稿は「人間はメディアをつくり、そしてメディアにつくられる」と言い直してもよい。

現代人は、まさに「メディアにつくられ」ており、かつそのことに気づいていないことが問題だと思いました。


〇第5章 ポスト3.11と代受苦の思想(出口康夫)

「代受苦」という言葉は、この論文で初めて知りました。

「代受苦」とはもともと大乗仏教の言葉であり、仏教の教えの理想的な実践者である菩薩が、他人の罪を代わりに引き受ける行為、具体的には、生前の悪行の報いを受けている地獄の亡者の苦しみを肩代わりする振る舞いを指していた。

これを読んで思ったのは、キリスト教との共通点です。イエスは全人類の罪を一身に負って、十字架にかけられた存在なので。

でもこの概念は、取り方を間違えるととても危険だと思います。少なくとも、原爆や災害などの犠牲者に対し、被害を受けなかった者が、その役割を押し付けることだけはあってはならないでしょう。それでは本当のスケープゴートになってしまいます。

なお『犠牲のシステム 福島・沖縄』でも、震災犠牲者の死の意味付けについて触れられています。


〇第7章 写真家の使命――畠山直哉の「転回」から考える(近森高明)

写真家の畠山がもともと持っていた考え方の1つに、以下のようなものがあります。

誰が、いつ、何を、どこで、どういう状況で、どういう方法で撮ったかといったコンテクストによって、見え方や意義が左右されるような写真は、写真=作品として自立しておらず、不完全である。

これは写真に限らず、芸術全般、ひいては仕事全般に当てはまると思います。「自分はこういう大変な状況で、これを制作した(仕事であれば「なしとげた」)」というエクスキューズをつける人って、たまにいますよね。

「だから不完全なのは許してね」ということなのでしょうが、やはり作品や仕事は、それそのものとして評価するべきものだと思います。そういうエクスキューズは、してはならないという自戒も込めて。


〇第9章 『シン・ゴジラ』と『絆 再びの空へ』――二人のゴジラ監督は津波と原発事故をどう「記憶/忘却」したか(須藤遙子)

私は『シン・ゴジラ』はリアルタイムではなく、だいぶ遅れてテレビで観たのですが、正直いろいろ突っ込みどころ満載で、楽しめませんでした。

でもこの論文を読んで、改めて見所や、私が違和感を覚えた点が整理された気がします。もちろん、気づいていなかった新たな視点も与えられました。もう一度、『シン・ゴジラ』を観ようかなと思いました。


〇第10章 喪失と対峙する――震災以後の喪の映画における移動性(久保豊)

この論文では曖昧な概念である「震災後映画」について、新たな定義が提示されています。本文中の言葉を借りつつまとめてしまうと、「震災後に震災を扱っ」たものだけではなく、「状況全体をさ」します。また「あらゆる作品に、震災の記憶が否応なしに読み込まれてしまう」 わけです。

ここでの「映画」は、興行作品としての映画だけではなく、素人が撮ったビデオ映像なども含めた映像作品全体を含み、かつフィクションもノンフィクションも含むと考えると、この『<ポスト3.11>メディア言説再考』に収められた論文の大半が、「震災後映画」を扱ったものと言えるのではないでしょうか。


〇あとがき(ミツヨ・ワダ・マルシアーノ)

重要な指摘がいくつも含まれ、この「あとがき」だけでも一読に値しますが、特に印象に残ったのは、以下の言葉です。

われわれに求められるものは、己の見解を持つことであり、異なる形の世の中の体制に対して、いつでも批判的な考えを持つことができる力だ。

ハードカバーで全371ページの、物理的にも内容も「重い」、そしてお値段も安くない本ですが、忘れてはいけないことを忘れがちな私たち自身を、振り返らせる力があります。



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