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【読書】学術論文的エッセイ~『かわいいピンクの竜になる』(川野芽生)~

『Blue』の著者である川野芽生さんのエッセイ集です。

↑kindle版


エッセイ集なんですが、博士課程を単位取得満期退学されただけあり、以下の引用に見られるとおり、何となく学術論文的理屈っぽさがあります。もちろんそれが、このエッセイ集の魅力でもあるのですが。

「かわいい服を着ている」ことと「男性から性的対象と見られたいと思っている」ことの間には何の関係もないのに、男性から性的対象として見られたくない人がみなかわいい服を着ることを避けたら、結果的に「かわいい服を着ている」=「男性から性的対象として見られたい」が成立してしまう。それはなんとしてでも阻止しなければ、かわいい服だってかわいそうではないか。

p.21


洞察の鋭さは、息をのむほどです。

お姫様を守る王子様と、お姫様を脅かす怪物は、同一だったのだと知った。怪物がいなければ王子様業も成り立たない。たくさんの怪物=王子様がお姫様を脅かして、お姫様はそのうちの最もましな一人を選んで自分の王子様にして、他の怪物から守ってもらう代わりに王子様の支配下に入るしかない。

p.33


何かを、美しいと思うことは、つねに対象への搾取なのだと思います。
それを、若い女性として私はずっと感じてきました。
対象が人間でなければ搾取にならないわけではありません。動物に対しても、植物に対しても、風景に対しても、その美しさを愛でることは誰からも許されていないと思うのです。人間はその美しさを愛でることで対象に権力を振るい、支配してきたからです。
女性が人間ではないものとされ、暴力を振るわれてきたのと同じように、人間は人間以外のものに暴力を振るってきました。

pp.43-44


現在生きている規範は、「女の子はピンクを好むべきではない」であって、ピンクを好む女の子を憎む者は、自分がその規範の奴隷になっていることに無自覚なのだ。先生の言うことを聞く子供は「いい子ぶりっ子」=権威主義者と見なされるが、実際に子供たちの間で権威・権力を振るっているのは教師などではなく強者の子供であるのと同じことだ。そのように小学生の私は思っていた。
そうだったのだろうか? 「女の子はピンクを好むべきである」という規範は、生きていたのだと今となっては思う。小学校の時、ピンクを身に着けている女の子もスカートを穿いている女の子もほとんど目にした覚えがなく、好きな色を聞かれると「青」か「緑」が定番の答えだったけれど、ピンクは高貴な人しか身に着けることを許されない禁色のようなものとなっていたのだと思う。(中略)
そうでなければ、ただの色があれほど強い拒否反応を引き出したりはしないだろう。強い憧れや羨望が劣等感がなければ。

pp.68-69

建前の上では男女を問わず、ピンクが好きな人もいれば、青や緑が好きな人もいる、と認めている時代なはずなのに、実際はそうではないから、奇妙にネジくれたことになっているわけですね。


フェミニズムというのは、「女性は〇〇をしなくてはいけない」「女性は○○をしてはいけない」に抗うこと

p.76


男の子にはなりたくないけれど、女の子になりたかった男の子、女の子みたいな男の子には、なりたいと思うことがある。

p.77

だから『Blue』の主人公が誕生したのでしょうか。


ウィリアム・モリスがファンタジー作家としての顔も持っていて、かつトールキンに影響を与えたことは知りませんでした。


ミソジニーは「女」を(たとえば「動物」として)わかりやすく見下すとは限らない。「天女」や「妖精」といった、美しく賢く優しく、人間を超越したものとして「女」を仰ぐこともある。しかしそれは、人間=男の要求を都合良く吞んでくれる、痛みを持たない存在として利用しているに過ぎない。たとえば「女」は芸術の女神たる「ミューズ」の地位に置かれることがあるが、芸術家として認められるのは「男」だけで、ミューズは結局のところ搾取されて捨てられる。

p.201

なるほど。なおミソジニーとは、女性に対する嫌悪、憎悪のことです。


自身のジェンダーを人間以外のものとして理解する「ゼノジェンダー」

p.202

初見の言葉だったので、備忘録代わりに書いておきます。


ロリィタファッションをはじめ、普段自分とは縁のない洋服や考えのことを知ることができました。


↑単行本



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