見出し画像

【読書】滋味豊かな本~『土を喰う日々――わが精進十二ヵ月――』(水上勉)~

映画『土を喰らう十二ヵ月』を観て、原作にあたるこの本も、ぜひ読もうと思っていました。

↑kindle版


水上勉自身の手になるカバー装画とカットが、これ自体精進料理のような、素朴で地味ある味わいを出しています。


禅宗は小僧を養育するのに、むずかしいことはつべこべいわずに日常の些細のなかへむずかしいことを溶かして教えるところがある。

p.8

このような感じで、冒頭から含蓄ある、控えておきたい言葉がたくさんあります。


芋の皮一ときれだって無駄にすることは、仏弟子として落第なのだ。
(中略)功徳を積むことにかけては大海の一滴ともいうべき小さなことでも、人まかせにしてはいけない。善根を積むことも、高い山の一個のチリほどのようなことでもなおざりにしないことだ。大海も滴の集まり、高い山も塵のあつまりではないか。

p.16

こういう心がけで禅僧は調理、いや日常生活全般に当たらねばならないのですね。わずかなりとも、そうしたいものです。


いくら、ほめられても、ぼくの方はぜったいといっていいくらいお代わりはしない。これも禅宗方式である。うまいものは大事に喰ってほしい。それで少なめに盛りつけてある。

p.20

なるほど。


真冬の貯蔵庫から、芋一つ撫でさすりながらとり出す気持をわかってほしい。外は零下の酷寒だ。(中略)そんな時、手にした芋のありがたさ。早く陽の照る春がこぬものか。

p.23

映画でも描かれたシーンですが、あのシーンが、より心に残るものとなりました。


古来先徳がさきに示した料理に、もし舌つづみをうつのなら、これを継承して、さらによくすべきだろう。先徳がたとえば三銭の費用で菜っぱ汁をつくったら、今日、三銭でミルク入りのあえものをつくろうと心がけるくらいの精進がなくてはならぬとは道元禅師のことばだ。ここでぼくは、精進料理の「精進」なることばをはじめて了解するのだ。

p.42

おお。


急なお客さんに御馳走しなければならず、スーパーに走って献立を考える時の考察が、面白いです。

この場合、考える「献立」という字は甚だおもしろい。じつは客の好みをそんたくし献げられるべきご馳走のはずが、スーパーにきて、メーカーに献げられるような結果となるふしが見うけられる。つまり、見た目にひきこまれ、つい、手がのびてそれを買い帰り、客へ強いるケースがありはしないか。よくしたもので、家内などそんな時、
「お口にあいますでしょうか。つまらぬ箸よごしですが、めしあがってみて下さい」
というておる。客の嗜好への配慮はなくて、押しつけるのである。それが「献げる」ものということになる。

p.46

納得する半面、ちょっと奥方様が気の毒なような……。


父が、弁当箱に味噌だけ入れて、山へ入り、山菜の類を収穫して、サイにしてぱくついていた行為は、真の醍醐味の顕現かと思いたくなる。ぼくが、さかしらに、他の人の弁当をのぞいて、父を哀れと思ったのは、凡愚の子ゆえだろう。鰯も鯛も、山うども、たらの芽も、真心の舌には一つの味である。どれを蔑むことが出来ようか。

p.82

ある意味でお父様のお弁当は、最高のお弁当ですよね。


(道元さんに)喰うことについての調理の時間は、じつはその人の全生活がかかっている一大事だといわれている気がするのである。
大げさな禅師よ、という人がいるかもしれない。たしかに、ぼくもそのように思わぬこともないのだが、しかし、そう思う時は、食事というものを、人にあずけた時に発していないか。つまり、人につくってもらい、人にさしだしてもらう食事になれてきたために、心をつくしてつくる時間に、内面におきる大事の思想について無縁となった気配が濃いのである。

pp.82-84

なるほど。しかし水上勉がものすごく手の込んだことを、何でもなさそうにこなす姿には圧倒されます。


禅宗の僧たちはうまいことをいう。一所不在だと。真の高僧はどこにいても極楽を見出す。酷寒の山にくらしても、文明の都会にくらしても、どこだって己が住む場所だ。随所作主。どこでも主人になれるというのである。このあたりの消息をふかめてゆくと、スーパーのビニール袋入りの芹にも、故郷が存在する。(中略)山にいなければ土が味わえぬというものでもない。

p.86

うーん、深いです。


軽井沢の山鳩は、豆のまく旬をよく心得ていて、どこかからにらんでいる。まいたあと書斎へ入ったスキに畑におりてきて、いくら土にうめておいてもきれいに掘りおこして喰ってしまうのである。

p.105

これも映画で描かれていましたが、本当にコントかと思うように鳩がやってきていました。


先ず収穫したのをよく洗い、ひと晩水につけておいた。これはアクをぬくためと、タネばなれをよくするためだと教わった。

p.110

私は梅ジュースを作る時、数時間で水から上げてしまうのですが、それだからタネばなれがよくないのかもしれないと、思い当たりました。
なお私の梅ジュースの作り方を、ご紹介しておきます。


人は、手でつくることにおいて、はじめて自然の土と共にある。たとえ、一粒の梅であれ葡萄であれ、西の人であれ東の人であれ、ちがいはしない。

p.126


梶浦師は、その著書で、次のようなユニークなことをいっておられた。
「修行の上からいっても時ならぬものを出すことは、宜しくない。その時々の季節、いわゆる『しゅん』のものを自由自在に調理できなければ一人前の料理人とはいえない。ご馳走という字は、はせ、はしると書いてある。だから寺の境内中、あちらへ走り、こちらへ走りすると、いろいろなものが目につくものだ。また、境内を歩かなくても、家の中、勝手もとをずっと歩けば、いろいろなものが目につく。草でもよし、果物でもよし、あるいはそこらにある菓子でもよい」

p.127

ほほう。


中村幸平氏の『日本料理の奥義』という本をみていると、料理には六味の味があってこそ完全な味だと説いてある。ふつうわれわれは、甘、鹹(かん)、酸、苦、渋の五味を分析して考えているが、もう一つその「後味」をつけ足して六味とするのが中村氏の説で、後味とは「たべたあとまたたべたくなるあと味」と説明されている。

p.146

なるほど。


滋味豊かな本でした。


↑文庫本



この記事が参加している募集

記事の内容が、お役に立てれば幸いです。頂いたサポートは、記事を書くための書籍の購入代や映画のチケット代などの軍資金として、ありがたく使わせていただきます。