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テンポよく読める~『結 妹背山婦女庭訓 波模様』(大島真寿美)~

『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』の続編にあたる本書ですが、これ単独でも読めるかと思います。

↑kindle版


操浄瑠璃の「妹背山婦女庭訓」によって、いろいろな意味で人生を変えられた人たちが各章の主人公になっているのですが、隠れ主人公とでも言うべきなのが、「妹背山婦女庭訓」を生み出した近松半二の娘のおきみです。


おきみは、圧倒的な浄瑠璃の知識と、そして浄瑠璃作者としての才能も持っているにもかかわらず、女性であるがゆえに浄瑠璃作者にはなれません。時代が時代だから仕方がないとはいえ、やるせないです。

物語が終わった後、おきみがどのような人生を歩んでいくかはあきらかにされていませんが、一種の呪いから解放されたことで、のびのびと生きていけそうな気がします。


心に残った部分。


まあ、わりかし、ええ種や、とは思うで。いつかきっと芽が吹いて花が咲くのやろ。せやけど、種のうちから、花は咲かん。(中略)その種を、だいじに育てたり。ええか、捨てたらあかんで。ほったらかしにして枯らしたってもあかん。というて、世話しすぎてもあかんのやな。これがむつかしい。うまいこと、土、かぶせて寝かせとくんや。たまに水やりしてな。するとしらんまに育ってくる。そしたら書ける。時がくるまで辛抱や。へたにいじくりまわすのはご法度やで。だいじにせえ

これは後に歌舞伎の立作者となる徳蔵が若かりし頃、師匠の半二から言われた言葉です。私にも一応、「種」があるのですが、なかなか芽吹かないんですよね。一応捨ててはいないんですが、以前は「へたにいじくりまわ」していた時期もあったし、最近は、ほったらかしにしていました。うーん、まだ手遅れじゃないと良いなぁ。もうちょっと、土をかぶせて寝かしておいて、水やりを怠らないようにしなければ。


混沌のなかにいると不安で仕方がないのに、道筋がひとつ見えただけでこれほど安堵するものなのかと専助は不思議に思う。人いうもんは、ただぼんやり生きとるだけやと恐いんかもしれへんな。なんかひとつ、欲しいんやろな。役割なり、筋書きなり。

これは一時は半二と共作したこともあったものの、引退していた専助が、ある理由で浄瑠璃作者としての復帰を決めた時の言葉。そうですよね、役割や筋書きは欲しいです。


平三郎は、この世は戯場だと思っている。(中略)平三郎にとって、日々の暮らしが、戯場見物をしているようなものなのだった。なにをみても楽しめるから平三郎はおおむね機嫌がよい。ときに、苦境に立たされることがあったとしても、たとえいっとき怒りに震えても、悲しみにくれても、立ち直りは早い。心が鎮まるのが早い。

平三郎は、若い時に「妹背山婦女庭訓」に夢中になったことで、人生の方向を変えられてしまった一人です。店の主人として、絵描きとして、素人義太夫として、それぞれそれなりに成功を収める平三郎ですが、そのこと以上にうらやましいのが、平三郎の上記の心持ち。心乱れてばかりの私としては、かくありたいものです。


波に乗ったかのように、テンポよく読める作品です。

唯一、不満なのは操浄瑠璃や歌舞伎の作品名にカッコも二重カッコもついていないこと。ついていた方が、絶対読みやすいと思うんですけどね。まぁ、どうでも良いと言えばそれまでですが、ちょっとストレスを感じたので。


見出し画像には、硯の写真を使わせていただきました。物語の終盤になって、硯が大きな意味を持つことになるので。


↑単行本



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